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ASIAN NOMAD LIFE2021.01.02 Saturday
書評:”The Practice" オーディブル版 ~ クリエイティブな仕事をしたい人のための45か条
amzonオーディブルを始めた。
記念すべき第一冊目はSeth Gordin著”The Practice"。
英語の本にしたのには理由がある。
日本語の本と違い、英語の本を読むには時間と忍耐力が必要だ。
わからない単語は辞書で調べなければならない。Kindle本だと単語が内臓辞書に直結しているので多少は速いけれど、それでも本文から辞書に跳ぶことで思考の流れがいったん中断される。元の文脈に戻るまでに時間がかかる。そのためのエネルギーも必要だ。
まだ語彙力が少なくて日本語の本が自在に読めていなかった、でも大人が読む本を読みたくてしかたなかった自分の小学校高学年や中学生の頃はどうだったかというと、もちろん辞書は引いたけれど、知らない語句が出てきてもけっこう飛ばし読みをしていた。テレビやラジオでも同じ。
つまりオーディブルは(英語ネイティブでない人たちにとって)そういうものだと考えればいいのではないか?
母語の日本語と違い、ほとんどの人にとって外国語の本は100%意味が正確に把握できるわけではない。また、テレビやラジオと同じで100%それに集中できるわけではないので聞き逃すところも出てくる。
でも、何かをしながら(私の場合は1日1万歩を目標にしているウォーキング)聴くことができるし、テレビやラジオと違い気になったり理解できなかったと感じた個所を何回も聴き直せる。
何より良いのは、自分で読むのと違って途中で投げ出すことなく最後まで読み上げてくれるところだ。つまり、苦行のような忍耐をしなくても、100%完璧にわからなくても、とにかく英語の本を読み終えることができるのがオーディブルの最大の利点といっていいと思う。
Podcastもそのあたりの感覚は同じ。そもそもこの本を購入した動機もこのPodcastの番組だった。 Design Matters with Debbie Millman: Seth Godin on Apple Podcasts
このインタビューによれば、ゴーディンさんのブログのポストはすでに7,500記事にのぼるそうだ。毎日休まず書いたとしても20年以上続けているわけで、驚異的な持続力というしかない。
クリエイティブワークに限らず何事にも通じる黄金律ではあるが、効果が出るまであきらめずに続けること(ブログでもPodcastでも初期の読者や視聴者はせいぜい5人とゴーディンさんは断言する)は成功の鉄則だ。
歴史上どんな高名な野球選手でも打率は3割代。つまり6割以上は失敗している。逆に言えば3割のヒットを打つためにはヒットしない6割の打席に立たなければいけない。成功者とそうでない人の違いは(アメリカの大新聞で作品を発表している漫画家に喩えて)この6割にあるのだ。
この本の副題の「Shipping Creative Work(クリエイティブな仕事を発表すること)」にあるように、本書のテーマはブロガーや、ユーチューバーや、デザイナー、漫画家等々、クリエイティブな仕事をしたいと考えている無名な人たちが、それで生計をたてるためには何をしたら良いかというアイディアとヒントを提供してくれる。
ゴーディンさんはマーケティング本の著作家及びセミナー講師として世界的な名声を博しているが(すでに著作が20冊もありその多くが邦訳されている)、世界的ベストセラー作家の彼が必要だと言う読者はたったの1万人。
これだけの固定ファン(読者やセミナー受講者)がいれば生計がたてられる。万人受けする必要はない。だから、自分の仕事にとって重要だと考えることを批判を恐れずに追及しろ、というのがこの本の最初から最後まで一貫する彼の主張だ。
私のような弱小ブロガーにとっては誠に有難い啓示である。
さらに彼が繰り返し説くのは、決してクオリティを落とすな、ということ。
クオリティを落とさず自分の作品を作っていくには、良いクライアントをみつけること。良いクライアントは要求が厳しいので自分の仕事のレベルを引き上げてくれ、さらにその仕事に対する報酬も高い。クラウドワークで時給3ドルの仕事を発注するクライアントの仕事をしていたら、いつまでたっても自分の仕事のレベルは時給3ドルにとどまるしかないだろう。
どちらを選ぶかはその人の決断による。
その他にも多くの示唆や気づきを与えてくれる本だった。前出のPodcastのホスト、Debbieさんはamazonの2つのアカウントを使って2冊分を購入し、メモのハイライトを全体を23%したという。
彼女が特に感銘を受けたというある章「45 ways we sacrifice our work to our fear(恐れを克服するための45か条)」には、「他人がそれを発展させることができるような作品は発表するな」「インスピレーションを得たときにだけ仕事をしろ」「完璧主義と質を混同しろ」「最先端の知識からは一歩遅れろ」など、少し違った角度からのアドバイスも大量に含まれていて考えさせられる。
新年のこの時期は1年の計画をたてるとき。私の今年の目標にはオーディブルでもっとたくさんの英語の本を読むことも入れた。約5時間半で聴き終えられるこの本は、新年の目標をたてる際の良い参考書になるだろう。 2020.06.14 Sunday
【書評】『道行きや』伊藤比呂美著(新潮社刊)
伊藤比呂美が100%人間ではない何か別のものに変わった。
比呂美は私よりちょっと先の人生を凄まじい形相で進んでいった人である。産み、産まされ、育て、育てさせられ、噛みつかれ、噛みつき、愛し、愛され、傷を負い、傷を負わされ、世話をし、世話をさせられ、聞き、聞かされ、満身創痍で振り返らずにずんずんと歩いていった人である。
思春期の子供たちには牙をむかれて閉じこもられ、母と葛藤し父の寂寥に相槌を打つために何度も何度も太平洋を横断し、夫に嫌味を言われながらも下の世話をし、いろいろな性格の犬たちと一緒に南カリフォルニアの荒地を歩いた。
そして、時間が経って、子供たちも親たちも夫も犬たちもいなくなった。
いま、比呂美の傍にいるのは流れるように毎年替わっていく無数の学生たちと、一緒に熊本の河原や山を歩く怯えた犬のホーボー、彼女と犬の前に突如現れては抑揚のない声でつぶやく古老たち、様々に同じ境遇を生きる何人ものヨーコさんたち、河原や山や家の中にはびこり繁茂しては死んでいく植物たち、そして彼女とホーボーがやってくると森を鳴らして歓迎する山の神。
これまでの比呂美の詩(エッセイでも小説でも比呂美が書くものはすべて詩だ)で繰り返し描写されてきた、くっきりとした自我と輪郭と匂いをもち、比呂美の存在そのものに戦いを挑んできた子や男や親や犬たちはもう登場しない。代わりに半透明な体であちらとこちらを行き来する、カオナシのようなものたちばかりが現れては消えるのだ。
彼らは比呂美自身の中に住んでいる。鏡を見れば母の姿が映り、後ろから話しかけないよう、はっきりと発音するよう繰り返し要求した父や夫の言葉が、聞こえにくくなった耳に甦る。山の匂いの中に昔の男の匂いがたちのぼり、ポーランドのお菓子から忘れたポーランド語がぽんぽーんと形をもって飛び出してくる。
比呂美の日本語さえ、indigenousな日本語ではない何かに変質している。私の中で彼女の日本語は容易に英語に変換されてしみこむ。でもその変換された英語は、南カリフォルニアの赤い皮膚と麦藁のような髪の人たちが話す言葉ではなく、私の周囲にたくさんいるタミル語やマレー語や広東語や福建語やタガログ語がもともとの自分の言葉である人たちと同じ種類の質量と温度をもった英語だ。
比呂美はどこに行ってしまうのだろう? 本人もそう慄いているのかもしれない。だから書くのだ。
Hey, you bastards! I’m still here!
と。
この本を読み終わったばかりなのに、次に比呂美が見せてくれるであろう世界をすでに楽しみにしている。 2019.05.08 Wednesday
書評:『中年だって生きている』酒井順子著 〜 時代とともに変わる独身子なし女性エッセイストたち
私が20代だった頃、ちょっとだけ年上の読書好きな大人の女性が支持する女性エッセイスト人気ナンバーワンは、群ようこさんでした。
群さんは1954年生まれ。団塊の世代より少し下で、80年代に椎名誠さんの『本の雑誌』でデビュー。一躍人気エッセイストとなって、「半径500m」の普通の独身女性の日常生活を淡々とした口調で語って同世代の女性たちの共感を呼びます。
群さんはその後もこのライフスタイルを貫き通して、着物で1年間暮らしてみるなど着物ブームの先駆けとなるようなエッセイも書かれていました。
群さんに続いては、80年代に高校生でエッセイストデビューした酒井順子さんが90年代のバブル期からポストバブル期にかけて躍進。
1966年生まれなのでちょうど群さんの一回り下。同じく独身で一般人と変わらない普通の生活がメインの日常エッセイを書くも、酒井さんの場合は群さんと比べて社会性が高いのが特徴です。
『負け犬の遠吠え』や『子の無い人生』など、ある意味では自虐ネタともいえるエッセイで幅広い読者を獲得しました。女性誌にとどまらず、おじさん週刊誌にも連載をもつなど活躍の場が広いのも酒井さんの持ち味です。
その後を継いで現在、人気急上昇中なのが、ラジオ・パーソナリティー出身のジェーン・スーさん。
1973年生まれの団塊ジュニア世代。酒井順子さんも参加の対談集『私がオバさんになったよ』では、脂が乗り切ったおばさん世代の旬の女性たちとのトークが話題に。スーさんは群さん、酒井さんと同じく独身ながら家事をほぼ担ってくれているという男性パートナーと同居していて、新しい時代の到来を感じます。
と、このように3人の名女性エッセイストを比べてみると、この40年ほどでいかに独身子なし女性エッセイストと彼女たちを取り巻く環境が変化したかという、時代の流れをつくづく感じます。
最近の群さんのエッセイのテーマは漢方薬をはじめボディケアがメインで、初老女性たちの参考になる体験エッセイが主になってきていますし、酒井順子さんが書かれた本書も更年期前後の女性たちの視点からみた日常。女性の老いがメイン・テーマ。
女性の老化に関する具体的で現実的な話が、大手出版社の雑誌に掲載されるエッセイとして一般に受けれられるというのは40年前では考えられなかったはず(ジェーン・スーさんはまだまだ恋愛話に花を咲かせられる現役ですが、10年後には絶対先輩たちに続いているはず)。
もう一つ面白いなーと思うのは、周囲への視線が若い世代になるにつれてだんだん優しくなってきていること。
もちろん群さんが冷たいというわけではないのですが、どちらかというと恬淡として感傷的にならず日常を描くのがお上手なのに対し、酒井さんは年とともに涙腺が緩くなってきていることを告白し、通りがかりの旅行者のおばさんたちにも「素敵な思い出を作ってほしい」と胸のうちで熱く語ります。
さらにジェーン・スーさんになると、人生相談のときの相談者への心のこもった励ましにとどまらず、対談集でもそれぞれの対談者から人間愛にあふれる言葉を引き出していきます。ましてや自分自身のパートナーに注ぐ眼差しは言わずもがな。スーさんはほんと優しい!
こうしてみていると、やはり確実に時代は変わってきているのだな、と改めて感じます。女性が社会で男性と伍して生きていくために自分を壊してしまうまで頑張り続けたり、それを避けるために社会的な関りをできるだけもたないよう努めたり、言葉を慎重に選び抜いてどこにも角を立てないように気を配ったり。そこまでしなくても、自然体で暮らして、書いても、男女ともに共感を得られるエッセイストの時代になってきているのではないかと思うのです。
と酒井さんが本書で語るように、以前は25歳で「クリスマスケーキ」(25日には誰も欲しがらない)と呼ばれ、結婚したらしたで「親に従い、夫に従い、子に従い」を期待されていた女性たちが、その世間の期待に対する消極的な拒否反応として選択してきた「独身子なし」人生。
そんな人生の後半戦に入った中年女性たちが、心安らかに年を取っていくための心構えを説き、エールを送るのが本書だと思います。 JUGEMテーマ:幸せなお金と時間の使い方 2019.04.14 Sunday
書評:『「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理』菊池正史著 〜 戦後自民党保守政治の終焉
野中広務さんという方は、現役時代には自民党の「影の総理」と呼ばれ、旧弊な密室政治の象徴という印象がありましたが、引退後はかなり彼に対する見方が変わりました。
その一つのきっかけとなったのがこちらの本。 ちょうど10年前に発行された韓国籍の辛淑玉さんと被差別部落出身の野中さんの対談本です。差別される側の人間としての野中さんの肉声は胸に迫るものがありました。
本書でもまだ政治家になる前、旧国鉄時代に受けた差別のことが書かれていて、その経験が野中氏が政治家を目指す大きな原動力の一つとなったことが指摘されています。
もう一つ、私の野中観を変えたのはやはり彼が2003年に小泉元総理大臣との政争に敗れ、政治家を引退してからの小泉政権に対する糾弾の姿勢です。彼は徹底して小泉元総理のふりかざす数の論理に抵抗し、議論の必要性を訴えました。
しかし、当然ではありますが世論を味方につけて多数の小選挙区を掌握した圧倒的な小泉元総理の前では野中氏の訴えは負け犬の遠吠えにしか聞こえず、彼が理想とした多様な思想信条の持主が混在する雑居世帯としての自民党は「ぶっ壊された」まま現在まで復活することはありませんでした。
その意味で本書は、野中氏をキーに戦後から現在に至るまでの自民党保守派の変遷を描いた自民党史でもあると言えると思いますし、著者の意図もそこにあった気がします。
本書では、野中氏も深く関わった自民党の転換点をいくつか詳細に描写しています。
1.田中角栄の失脚と「経世会」合議制政治の始まり 戦後「エリートは間違うから、強烈なリーダーシップをもつエリートに政治を任せてはいけない」という信念のもと、戦争体験をもつ野中らが参集したのが田中派であり、岸元総理や中曽根元総理などの戦中エリートたちは、国民の声もありどうしてもこの牙城を崩せなかった、という経緯が語られた後、戦中戦後もその図太さと繊細な気配りで生き抜いた、田中角栄という希代の政治家についての人間的な魅力についてもかなりのページを割いています。
しかし、ロッキード事件で田中が失脚。新しく派閥を立ち上げる竹下と金丸に50代後半にして衆院に初当選したばかりの野中が合流。自民党の世代交代の流れに乗り、竹下派「経世会」を中心に盤石な自民党合議政治が始まります。
2.小沢一郎の離反と数の論理の台頭 しかし、上記のような多様な政治的信条や意見の違いをもつ政治家の合議政治の弊害として、物事を「決められない」政治へのジレンマが描かれます。
「決められない政治」への苛立ちに油を注ぐように世論の怒りを煽ったのがリクルート事件。これをきっかけに竹下元首相が辞職し、台頭してくるのが田中角栄の秘蔵っ子と言われた小沢一郎。
与党自民党最大派閥のプリンスならではの駆け引きや金の扱いの熟練した手管に加え、「積極的平和主義」を唱えて自衛隊の海外派遣を推進し、アメリカとの日米構造協議でも交渉役となって市場開放を推進。そして小沢の最大の政治的成果は「一票でも多くとれた方が勝ち」となる小選挙区制の導入でした。
私も当時のことはよく覚えていますが、「金権政治の根源は選挙に莫大な金がかかる中選挙区制にある」という論調が大半で、小選挙区になれば派閥のドンから配られる大きな金を必要としないクリーンな選挙ができる、とマスコミで喧伝されていました。
しかしその結果どうなったかというと、以前の中選挙区なら仮に党から公認を受けなくても2位、3位で当選できていた保守系候補が議席を確保できなくなり、小泉内閣が行ったように「刺客」を送られて落選したり、安倍内閣が行っているように公認を得るために党内で反対意見を述べられなくなってしまうという土壌が醸成されたわけです。
金権政治問題では竹下のみならず金丸も辞職。小沢一派は自民党を離党。小沢は「改革派vs.守旧派」というわかり易い対立構造をメディアに喧伝し、国民はこれに熱狂していきます。その結果として小沢は自民党を離党して、日本新党ほか「非自民勢力」をまとめあげ1993年に細川内閣が成立。発足直後は7割前後の高い支持率を誇りました。
下野した自民党では野中が小沢批判を展開し、公明党攻撃を端緒に徹底的にこの新政権と闘います。
3.自社さ連立政権における日米安保と自衛隊の公認 小沢主導で成立した細川内閣があっさり倒れた後、野中が暗躍して自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権が成立。社会党の村山総理大臣が誕生します。
自治大臣兼国家公安委員長に就任した野中は、自民党のドンとしての貫禄をまとい村山首相を支えます。その中で日本を代表する総理大臣となった村山首相が認めざるをえなかったのが「日米安保、自衛隊、日の丸・君が代」。戦後一貫して反対してきた社会党の総理がこれを認めたことにより、日米安保も自衛隊も晴れて合憲とされたわけです。
4.公明党との連携 1998年には再び自民党の首相となった橋本総理が辞任して小渕内閣が発足。ここで野中は官房長官になり公明党との距離を縮めた他、仇敵小沢とも和解しねじれ国会を乗り切る算段を整えます。
しかし、「ブッチホン」で知られた自民党内の気配りと調整の象徴ともいえる小渕首相は2000年4月に小沢との2人きりの会談直後に脳梗塞で倒れて帰らぬ人に。
しかし、この内閣で野中がパイプを作り公明党と連携したことが、現在まで続く自民・公明連携内閣の基礎となったといいます。
5.小泉内閣から安倍内閣へ。数の政治の始まり。 小泉氏が首相に初当選するのは2001年。その立役者は野中と対立し「野中さんの政治は時代が求めているものと合わなくなっていた。改革するエネルギーがないと思った。そして自分は、野中さんたちの古い政治を改革しなければならないと思った」と語る平沢勝栄。そして、父を裏切った経世会メンバーに積年の恨みを抱き続けてきた田中真紀子。
ここに「古い永田町の論理vs.改革を求める国民」という、小泉内閣を最後まで支える構造が成立します。そして当時の守旧派の最大の実力者が野中広務でした。
最終的に野中は反小泉勢力をまとめることができずに小泉内閣が誕生。ここに至って、戦後続いてきた自民党の調整政治が終焉し、「一票でも勝ったものに敗者は従う」という超合理主義が誕生したと著者は語ります。
この流れが現在の安倍内閣まで続いているのは言うまでもないでしょう。
これ以外にも、規制緩和により「自己責任で強く生き残っていける企業や個人を理想化」し、自衛隊の海外派遣を実現し、「超」がつくほどの「日米協調」路線をひた走った、という論評もまったく的確です。
そして小泉内閣が改革路線を断行する中、野中広務は2003年に政界からの引退を表明するのです。
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政治とは時代につれ、人々の変化につれ、生き物のように変わっていくもの。野中氏が政治家として生きた昭和から平成の50年以上に及ぶ年月もまた、人も政治も変化していった期間でした。
汚職で失脚した方々をも含め、歴代の首相たちや野中氏をはじめとした数多の政治家たちの大部分を突き動かしてきた原動力は、決して個人の私利私欲への渇望ではなく、日本国民の幸福な生活の実現という高邁な理想であると私は信じています。そうでなければあれほど割に合わない仕事をする理由がみつからないからです。
しかし、その理想が現実と噛み合うかどうかは、個人の努力や能力を超えて、その時代の潮流に任せる以外にないといえるでしょう。
戦後74年。あと数週間で平成という時代が終わる現在、野中広務のような暗い戦争の時代を生き延びてきた政治家がいなくなり、私たち選挙民もまた、大正デモクラシー時代の余韻をひきずる昭和2年に自殺した芥川龍之介が感じた「ぼんやりとした不安」以外にはっきりとした困窮の予兆を感じているわけではありません。
このような時こそ、もう一度日本の政治の過去を振り返って総括し、私たちが今後どこに向かうべきなのかを一人一人が反芻して考える機会を持つ必要があるのではないでしょうか。本書はその好機を与えてくれる良書です。 JUGEMテーマ:政治 2019.04.03 Wednesday
書評:『先生、ちょっと人生相談いいですか?』by瀬戸内寂聴x伊藤比呂美
瀬戸内寂聴x伊藤比呂美、という現代きっての人生相談の名手がそれぞれの人生と人生観(お互いにかなり近い)を語った対談集。久々にこれほど強烈な本を読みました。
どのくらい強烈かというと、
ウルトラ・ヘビー級の強烈さ。
そもそも1人だけでも数百人かかっても倒せないくらいの重量感なのに、それが2人。しかも42歳でヌード撮影した比呂美先生と、88歳でアラーキーにヌードを撮ってもらっておけばよかったと悔やむ寂聴先生です。
ベストセラー処世術本にありがちな、うわべをなでるきれいごとではなく、人が人として、生々しく実体をもって生きることの本質をこれでもかと畳みかけてくれます。
とにかくこれだけハンサムなお2人ですから、文学でのお仕事の業績はもちろん、恋愛関係の武勇伝もすさまじい。
と、この調子。そして2人にかかれば偉人も形無しです。
日野原重明医師 → 女々しい。 作家 森鷗外 → スケベ。 作家 大庭みな子 → 夫が奴隷。
と、彼女たちが満身創痍の人生から導き出した判断基準で容赦なく批評(でも愛はある)。
逆に限りなく温かい視線を注ぐのは、バッシングされたり、親から愛されなかったりする弱者たち、そしてこれまでの人生で出会ってきた男たち。ご自分たちの鬱の乗り越え体験も交えながら、語ります。
不倫や事件などでマスコミに叩かれる人たちについては、自分たちも含め、普通の生活を送る人と紙一重であり(私もまったくそう思います)バッシングがひどすぎる。
毒親については、親など反省しないのだからどんどん捨てて逃げてしまえばいい(できれば男と一緒に)。
そして、別れたり死別したりした男たちについては、「つまらなかった」「嫌な男だった」と酷評しながらも、最期まで世話をして看取ったり、今も気にかけていたりする様子を淡々と語ります。
男たちとの恋愛や結婚の修羅場を何度もくぐり、それは時には自分自身の子供たちの人生をも否応なく変えてしまうほどに荒々しいもので、彼らを犠牲にした業を背負い、深く後悔しながら生き続けていく覚悟にもただただ頭が下がります。
そして最後は死ぬことと書くこと。
尼僧ながら、最後は無と何度も言い切る寂聴先生。だからこそ生きている間に何をおいても仕事をするのだとお二人。
この神々しいまでの潔さと文学にかける無尽の熱意こそが、この対談の中にずっと流れているために、この本が対談には珍しい真摯で深淵な人生論になっているのだと思います。 JUGEMテーマ:幸せなお金と時間の使い方 2019.03.06 Wednesday
書評:橘玲著『もっと言ってはいけない』〜 IQの高さと社会的成功は正比例?
『言ってはいけない』シリーズの2作目。
前作が面白かったので期待して読んだのですが、事実誤認も含めて(ある程度は仕方ないとしても)残念なところが目立ちました。 1作目。こちらはたいへん興味深かったです。再度読み直してみましたが、やはりこちらのほうが知的好奇心を刺激されます。 なぜ2作目が残念な結果に終わったのか、私自身の経験も交えながら考えてみたいと思います。
1.学力優秀な人が専門職として成功を収めるのと、真のイノベーターや起業家が成功するプロセスも内容も違うが、どちらも社会的成功とひとくくりにされている。
本書では日本人や中国・韓国人など東アジア系の人々の遺伝子の中に、内向的かつこつこつと勉強するような努力型遺伝子をもつ人が多く、そのためアメリカでは東アジア系の移民やその子孫に弁護士や医師などの高学歴専門職として成功する人が多いとしています。確かにこれは真実でしょうし、加えて「タイガーマザー」など教育に非常に高い価値を置く東アジア文化の影響(環境要因)もあるのでしょう。
いっぽう、世の中に圧倒的なインパクトを与えるイノベーション型の天才には、このような類型に当てはまらない人が少なくありません。アインシュタインは工科大学受験に失敗するほど劣等生でしたし、スティーブ・ジョブズも大学中退。ヴァージン・レコード&航空の創立者のリチャード・ブランソンに至っては、ディスレクシア(難読症)で高校中退です。
確かに高級官僚や高給の専門職には前者のようなタイプが多いかもしれませんが、平均的な人々を凌駕する圧倒的なボリュームのお金や影響力をもつ社会的成功者たちには、むしろ学生時代の学力など関係ない人々のほうが多いのではないかと感じます。
さらに言えば、知的専門職よりも金銭的な成功を達成しやすく、かつそこそこ数が多いのは、中小企業も含めた企業経営者です。私もずっと経営者をしていますのでよくわかりますが、経営者としての成功不可欠条件に学歴は入りません(サラリーマン経営者は別)。もちろん勉強家の方は多いですが、それはあくまで仕事の専門分野に関することで、有名大学入学や狭き門の資格試験に合格するための受験勉強は彼らにとってはまったく無意味なのです。もしどうしてもそのようなスキルが必要であれば、自分で勉強するよりそういう人を雇ったほうがいい、というのが経営者の発想です。
この区別が本書の中ではきちんと整理されておらず、知能が高い→学力が高い→社会的成功、という図式が大前提になっているところが私には一番の疑問でした。
2.そもそも知能テストで測定できるIQとは何か?
私の前職ではスタッフ採用の際の筆記試験に、簡単な敬語や計算能力などをテストする一般教養テストの他、市販の知能テストや性格テストを利用していました。知能テストは、自分でもやってみたことがありますし、20年近くの間に数百人の人たちの試験結果もみてきました。その結果いえるのは、知能テスト≒学習能力が高いかどうかをみるテストだということです。
例えば、2つの文を読んで差異や共通点を探す、とか、立体図形の展開図を選ぶとか、とにかく意識を集中して問題を読み、短時間に機械的に同じ回答作業を繰り返していく、というのが基本。途中で文章の続きを考えてみたり、正解と違う展開図からその形を想像してみたりと余計なことをするとすぐに時間がなくなり、がくんと成績が落ちます。
これはまさしく、詰め込みの受験勉強に対処するやり方と同じで、想像力や創造力はまったく必要とされず、言われた通りに作業を遂行する秀才は選別できても、これまでの常識を打ち破るイノベーションを起こす天才型の才能は決して捕捉できません。
いっぽう、Wikiによると、知能テストの元祖ともいえるビネー法をアメリカで標準化したスタンフォード・ビネー法開発者ルイス・マディソン・ターマンがこの試験を行ったところ、本書で言及されるような人種間による有意な得点差が認められたが、同時に男女間でも差が開き、女児のほうが男児より得点が高かったといいます。
ターマンは男女差はテストの不完全さに起因するとして得点の修正を行ったが、人種間ではただの事実と考えて修正しなかったそうです。まるでどこかの医大の入学試験のようでありますが、真面目なこつこつ型を知能テストによって選抜試験したら、女性のほうが圧倒的に成績がよいというのは、スタッフ採用に常に頭を悩ませている経営者だったらほぼ誰でも異論はないと思います。
では、女性のほうが男性に比べて平均的に頭がいいのか? たいへん残念ですが私はそう思いません。本書で事実とされる人種間の知能格差についても同様です。
男女間の差異という問題について、橘氏は男性のほうがばらつきが多い「標準偏差」が大きい、つまり平均より能力が高い人も低い人も男性のほうが多いという説明をしていますが、ここで紹介されている表を見るかぎり、明らかに平均をとったら女性のほうが知能テストの結果はかなり高くなるはずで、それについてのクリアな説明はありません。
人種間では何ポイント高い、低いというような詳しい説明があるのに、この点の説明が不十分なのは、あえてそこを論点にするのを避けているのではないかと疑います。
3.AI時代に生き残る地頭の良さとは何か?
1で例として挙げた3人に共通する点があります。それは、3人ともADHD(注意欠陥多動性障害)が疑われているということです。
我が家の娘も重度のADHDなのでよくわかるのですが、彼らには自分が興味のないことには集中できないという共通した特徴があります。ですので、このような人たちに上記の知能テストをやらせたらどういう結果になるか、火の目を見るより明らかでしょう。彼らは自分にとってどうでもいいことには全くといっていいほど無関心なのです。
娘の場合、もちろん学校の成績は悪く、テストを受ければ得意の英語でも合格ぎりぎりでそれ以外はすべて赤点。というのも、ほとんどの場合、途中で回答を放棄していて(たぶん何か別のことを考えている)、読解問題に至っては問題文を読んでさえいないらしいのです。
何でこのような態度をとるのか? 以下は、あるシンガポール人の女性が息子のADHD的特徴を書いたもので、非常に的確に彼らの性向を説明していると思います。
このように、ADHDの子どもの多くは知能テストにも学力テストにも、まったく興味も適性もないのです。
しかし、では、彼らの地頭が悪いかというと決してそうは思えません。
うちの娘の場合、ちゃんと聞こうという態度のときには小4には難しい概念もかなり理解しますし(その気がない場合には何をいっても「わかんない」ですませようとしますが)、創造性ということでいえば私などよりずっとクリエイティブだと感じることが多々あります。特に自分が好きなことになると、何時間でも集中してのめりこみます。
ADHDを告白した勝間和代さんのブログを読んでも思うのですが、ADHDの人々はこだわり始めるととにかくしつこい(おそらく自閉症の方も同じではないかと思います)。自分たちにとってどうでもいいことは無視し、徹底的に自分が気になる事柄にしつこくこだわった結果として、イノベーティブな創造性が産まれてくるのではないかと想像します。
正解があらかじめ定められているルーティンの課題を黙々とこなして着実な成果を残していく秀才型の頭の良さと、ADHDの人々にみられるようにしつこく一つのことにこだわり続けてこれまでにない新たな方法を見つけ出すという頭の良さを比べて、どちらが地頭がよいかといえば、知能テストで白黒つけることは困難ではないでしょうか。
特にこれからのAI時代、前者のような作業はいずれすべてAIがやってくれるようになります。コツコツ型の秀才が得意な、長時間の退屈な暗記作業が要求される語学学習さえ今後は必要なくなるでしょう。(語学はやはり自分で習得しなければ本当の意味はわからないというような人がいますが、では映画をその言語で理解できなければ観てもわからないのか、といえばそんなことはないはずです)
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その他にも、「広東語や福建語、上海語は普通語(北京語)の方言ではなく、分法からまったく異なる」という箇所は明らかに事実誤認ですし(基本的な文法は同じなのでどれか1つできれば他の方言の取得は比較的容易)、中国南方でも知能が高いのは科挙のせいという記述もありますが、中国以外の台湾、香港や東南アジアの政治・経済界で成功している華人には客家が非常に多く(シンガポールの元首相リー・クワンユーやゴー・チョクトン、タイのタクシン元首相等々)、広東や福建系の客家でも基本的には北方人です。これを確かめるにはハグしてみるのが一番。同じ華人でも北方系と南方系では骨格がまったく違います。
『言ってはいけない』シリーズでは、人間の能力のほとんどを遺伝と進化で説明しようとしてムリをきたしている感があります。遺伝はもちろん無視できないほど大きいファクターではありますが、人間の脳というのはとてもそれだけでは説明しきれない無限の可能性を秘めていると私は考えています。
実際に私が経験したことですが、大学受験の際、志望校が次々に不合格になってしまい、最後の受験校であった早大受験の前に苦手科目だった日本史を必死で勉強しました。この時、火事場の馬鹿力で、当時使っていた山川出版社の日本史の教科書、副読本、年表の3冊を、5日ほどの間にすべて丸ごと覚えてしまったのです。
試験当日、問題を解いていて圧倒的に不思議な感覚に襲われたのをよく覚えています。どの問題を読んでも、その回答が書いてあるページがまるでプリントされた写真のように目の前に浮かんできます。何Pの欄外の注の2番目に書いてあった、ということまでわかりました。結果、当日の日本史の試験結果は満点だった思いますし、実際に合格もしました。
その後このときに覚えた記憶はすべてなくなり私は本来の姿である凡人に戻りましたが、この不思議な体験をしたことにより、人間の知能や脳の働きについて、単なる類型で片づけられるものではないということがよくわかったのです。
これからのAIが人間の能力を軽々と凌駕してしまう時代に向けて、自分の娘にどのような教育を与えればいいのか、どのように育てたらいいのか、という問題には多くの他の親御さんと同じく、私や夫も悩むところです。カンボジア生まれの我が娘の場合、東アジア型の遺伝子はもっていないかもしれませんが、恐らくその遺伝子に支配されている夫(客家系華人)や私よりよほど素晴らしい才能をもっている可能性は決して低くありません。
シンガポールでは昨日、長く続いてきた小学校卒業試験の点数による中学のコース振り分けを終了し、新しい制度を作っていくことが発表されました。次期首相候補に内定したヘン財務大臣が文部大臣時に「Every school is good school」という標語で教育の多様性を重要するキャンペーンを展開しましたが、今後はさらに主要教科の学力テストの点数にしばられない評価方法に移行していくと考えられます。それはすなわち、国民の能力以外には頼るリソースが何もないシンガポールの国としての生存をかけた決断でもあるのです。
今後の社会でAIに淘汰されずに生き残っていくための能力を身につけるにはどうしたらいいのか? それは決して生まれもった遺伝子から考えて答えのでる問題ではないのではないでしょうか? 2019.02.26 Tuesday
朝鮮半島統一は既に規定路線?〜ジム・ロジャーズ著『お金の流れで読む日本と世界の未来』
JUGEMテーマ:国際社会 北朝鮮のキム・ジョンウン書記長が23日、ハノイで開かれるトランプ米大統領との第二回会談に向けて専用列車で平壌を出発したそうで、連日この関係のニュースが流れています。
昨年シンガポールで一回目のキムートランプ会談が開かれたときには、目立ちたがり屋のトランプ大統領が核を口実に会談し、世界に顔を売るためのパフォーマンスなのかなと思っていました。
なので当時、近所に住んでるニューヨーク出身のアメリカ人でトランプが大っ嫌いなヘーゼルが、いつも会うコーヒーショップでスマホ画面に食い入るようにこのニュースを見ていたのを「核放棄なんて言ったって北朝鮮はどうせ変わらないんだから、騒ぐだけムダだよ」とからかってムッとされたくらいでした。
しかし、今回は前回とは違い、だいぶ状況が進展してきているようです。 この本の中でジム・ロジャーズ氏がしきりに気にしているのは、タイトルにあるような日本の未来などではなくて (インタビューを起こした本で、インタビュアーは何とか日本の話題にもっていこうとしてしきりに振るのですがほとんど興味を示さない)、南北朝鮮統一後の東アジア経済です。
彼の中ではすでに朝鮮半島統一は既定路線で、それも相当早い段階で起こると考えている。そして、何とかこの機会に生じるビジネスチャンスを活かそうとしているのです。
この主張を裏付けるかのように、昨晩のTVニュースでは、韓国のムン・ジェイン大統領が「朝鮮半島統一後の利権を狙う勢力が多いが、最大の受益者は韓国であるべきである」と表明したと、びっくりニュース扱いで報道されていました。
こう考えると日韓間で大変な問題になっている慰安婦問題も徴用工問題も、統一後の北朝鮮との一体対応を想定して、わざと日韓間の協定や合意を破棄しようとする動きなのかと勘繰りたくもなります。
そもそも北朝鮮の核放棄くらいの功績でトランプ大統領がノーベル平和賞の候補になることは不可能だと思いますので、安倍首相も推薦したという報道が事実であれば、すでに世界の首脳陣の多くは、朝鮮半島統一を前提にした上でポスト統一を念頭に置いて動いているとみるのが自然でしょう。
ロジャーズ氏はこの本の中で、統一後の朝鮮半島は日本を凌駕する国になっていくだろうと絶賛しています。その理由として、勤勉な国民性や豊富な天然資源などと並んで「子供を産もうという若い女性がたくさんいる」ということを繰り返します。日本はもちろん、韓国、台湾、そして中国と世界でトップクラスの少子化が東アジアで進む中、北朝鮮の子供をたくさん産む若い女性が救世主になるというのです。
統一後に旧北朝鮮の人々が旧韓国の人々のような豊かな生活を求めて懸命に働き、若い女性は70年前の団塊世代の母親たちのようにひたすら子供を産む、という明るいのか不気味なのかよくわからない未来を想像してみますが、ベルリンの壁崩壊時にはどうだったのでしょうか?
いっぽう、朝鮮半島統一をメインイベントとした東アジアの明るい未来図は、世界中の国々で借金が膨らみすぎたためのグローバル規模の大恐慌は不可避という主張とセットです。その中には独自の主張である世界経済の重心が少しずつ東に移行しつつあるという説を裏付けるような、ロシアの躍進も含まれます。
確かにこの本に書かれているような個々の事象は起こるかもしれませんが、私には中長期のスパンで世界的がどのようにダイナミックに変わっていくかが、あまりはっきりみえませんでした。
コモディティ市場や実際の世界の人々の暮らしをベースにした世界の実勢に見識の高いロジャーズ氏が描くビジョンと、AIやテクノロジーの急速に進化する未来ビジョンを明確に持っている(であろう)孫さんのような方が討論したらもう少し面白く、説得力がある本になるのもしれないなと思います。 2019.02.12 Tuesday
誰もが引きこもりになる未来〜鈴木貴博著『格差と階級の未来』
Blogos掲載のブログ記事で米国流通業界コンサルタントの方が書いた、これまでに続き今年も大量の小売りチェーン店が閉鎖に追い込まれて米国のショッピングモールが空洞化していくだろうという記事を読みました。 私が初めて米国を訪れたのは今から35年以上前のこと。ホストファミリーに連れていってもらったロサンジェルス郊外の大型ショッピングモールでは、これまで見たこともないような色とりどりの商品の洪水と、アメリカ映画に出てくるような幸せそうな家族連れで溢れ返り、まるで夢を見ているような時間を過ごしました。
そんなおとぎの国のようだったショッピングモールが現在では見る影もなくなっているということ。そして今後もその傾向は加速していくという予測。一つの時代が終わったというより、これからどうなってしまうんだろう、という背筋が冷たくなるような不安を覚えます。 この本では、今後、小売業はもとより、AI導入によって現在は高い技術や技能の対価として高い俸給を支払われている頭脳労働の仕事がどんどんなくなっていき、技術者や事務職の年収が低下して、中流階級がさらに縮小するという未来が語られます。
その結果「新下流層」が拡大して中流階級に代わるマジョリティとなり、世界的に購買力が低下。一方でスマホとコンビニさえあればじゅうぶん満足、という意識の人々が増加し、消費はさらに停滞するものの、大きな社会的不安は引き起こされないだろうといいます。
そして、新下流層が大量に消費したり車で出かけたりしなくなることにより、解決すべき喫緊の課題である地球温暖化問題まで氷塊するだろうと予言するのです。
現在、中国ではネットショッピングの利用割合が世界最大で20%、それに続く米英では15%と言われています。たったこれだけの買い物がネットに変わっただけで、冒頭のような米国ショッピングモールの壊滅状態が現実のものとなっています。
それがさらに進行し、筆者が描くような未来が現実になった暁には、人々の欲求は実際のモノ消費ぬきのバーチャル世界の中でのみ開花し、現実世界は一段と錆びれていくのではないでしょうか? まさに映画『マトリックス』や『レディ・プレイヤー1』の世界です。
荒唐無稽な空想のように聞こえるかもしれませんが、日本のシャッター商店街なみにゴーストタウン化した米国ショッピングモールの写真を見たり、タブレットで猫の着せ替えゲームに熱中する9歳の娘の姿を見ていると、そんな妄想が現実になりそうな予感がしてなりません。 JUGEMテーマ:国際社会 2018.04.03 Tuesday
書評:『99の持ちもので、シンプルに心かるく生きる。』byドミニック・ローホー
『シンプルに生きる』が世界的ベストセラーになったミニマリストでフランス人エッセイスト、ドミニック・ローホーさんの持ち物を写真つきで紹介する一冊。
想像していたよりけっこういろいろなものを持っていらっしゃるのと、服も靴もバッグも食器もその他日用品もほとんどモノトーンのが基調で組み合わせに悩む必要がなく、ミニマリストとはこういう合理性をもっていらっしゃるのかと参考になりました。
日本人の私としてはドミニックさんが大きな影響を受けたらしい禅僧の生活について語っても「できる限り物をもたない=物に縛られない、という禅の基本的なコンセプトから、取捨選択して限られたよい物をもつという発想にうまく変換されているのだな」と感心するのですが、ドミニックさんの著書の外国人の読者たちはそうは考えないようです。
アメリカで大ヒットしたこんまりさんの著書も、アメリカ人のジェニファー・L・スコットさんが書いた『フランス人は10着しか服を持たない』も、「少ない数で自分にとって大切なものだけを持つ」というテーマはドミニックさんの本と共通しています。
興味深いことに、これが「日本に長く住んでいた」がセールスポイントのドミニックさんや日本人のこんまりさんになると、ごく自然にミニマリズムのコンセプトが禅と結びつき、フランス人となると「お洒落」に結びつくようなのです。
ドミニックさんの場合は、日本に長く暮らしたお洒落なフランス人で禅に影響を受けているというのですから、ミニマリストに必要な要素がすべて揃いすぎていて無敵。ただし、日本の読者はミニマリストというより彼女のお洒落な持ち物の方により大きく惹かれるのではないかと感じました。
面白かったのは、ドミニックさんの本を英語で検索するとかなりの数のアラビア語のレビューが出てくること。
私から見ると、もともと砂漠の民である中東の方々は究極のミニマリストではないかと思っていたのですが、ドバイを見てもわかるように世界有数の豊かさを誇るようになった現在では、逆にこのようなミニマリスト的生き方に憧れをもつのかもしれません。 2018.02.11 Sunday
書評:『お金2.0 新しい経済のルールと生き方』-- 仮想通貨はなぜ苦境に陥ったのか?
JUGEMテーマ:経済全般 ■仮想通貨の価値下落最大の要因は国家の規制に ビットコイン価格がMEM流出事件を契機に大幅に下落し始め、現在、昨年最高値の半分以下となっています。また、世界の大手銀行が次々と仮想通貨のクレジットカードによる取引を禁止した他、フェイスブックも仮想通貨の広告を禁止。中国政府は国民の全面的な取引禁止に踏み込むと考えられており、世界的に仮想通貨に対する規制を強める動きが高まっています。
昨年、ビットコインが異常に値上がりし、レバレッジをかけて(=借金をして)投機に手を出した人が「億り人」などとマスコミでもてはやされるようになってから、仮想通貨をめぐる状況について非常に疑問をもってきましたが、ここにきてその不安が的中した形になってしまいました。
『ニュースウィーク日本版』の最新号でも、各国金融界のリーダーたちの言葉が紹介されています。
特に、昨年9月に早々に取引規制に動き始めた中国の目的は、投機に対する規制というより、マネーロンダリングや脱税防止がメインの理由であったと私は考えています。もともと領収書販売がビジネスとして成立するお国柄ですから、表には出せないお金を合法化する手段として、仮想通貨はうってつけだったのでしょう。
「仮想通貨はいかなる政府からも発行されておらず、いかなる資産や発行者にも裏付けられていない」(シンガポール通貨監督庁)といお金が、各国政府が発行する「通貨」と競合するほどの力を蓄えてくるようになれば、国家を国家たらしめる権力基盤である「徴税権」が脅かされかねません。
ビットコインMEM流出事件などはただのきっかけにすぎず、この動きは仮想通貨の台頭に対し国家が反撃を始めた合図のような気がしてなりません。
■仮想通貨とアナーキズム アナログ版仮想通貨として、最近、女性誌『クロワッサン』にも取り上げられたのが、神奈川県相模原市藤野の「萬(よろづ)」という地域通貨です。
古くから芸術家などユニークな移住者たちが住む地域として有名だったそうですが、比較的最近の取り組みとして「地域の自立」「持続可能な社会」を目的として仮想通貨を発行し、一部の住民が法定通貨と同様に使用する経済システムに取り組み始めました。
現在の会員数は約500名。農産物や送迎サービスなど物やサービスを交換し、それを通帳(ノート)に当事者同士で書き込み。全員がゼロから始め、マイナスになっても問題ないそう。また、商売をしている人はすべて萬会計だと収入がなくなってしまうため、一部を円、一部を萬で支払うことができるそうです。
ごく一部の地域で、限られた人数の人たちが行っている間は問題ないと思いますが、このプロジェクトでは再生可能エネルギーによる電力事業にも進出中で(規模はまだごくごく限られているようですが)、このような取り組みが各地で増え、経済規模が大きくなってきたときに、所得税や消費税などの徴税機能がうまく働くのかどうか疑問に思います(なにせ萬はマイナスになっても誰も困らないわけですから)。
このようにデジタルであれアナログであれ、特定の国家が発行しない「仮想通貨」は、マネーロンダリングや脱税、さらには国家の徴税権を脅かすアナーキズムの側面をもっていると考えるべきだと思います。
■仮想通貨を軸とした複数の経済圏 さて、『お金2.0』では、貧困家庭に育ちずっとお金に苦しめられてきたという著者が、仮想通貨に理想郷的な解決を見出します。
ビットコインが単なる投機の対象になる中、それでもイケダハヤトさんをはじめ一部の方々が仮想通貨に強く魅惑されてきたのは、ひとえにこの、従来の国家や経済の枠組みと離れたところで、私たちの日常生活が成立可能になるかもしれない、という期待の現れだと思います。
という未来像を描く著者は、ずっとお金に苦しめられてきただけあって、たとえお金がなくなっても仮想通貨や企業の発行するポイントという価値によって、セーフティーネットがある「複数の経済圏に生きる安心感」が得られるといいます。その結果、資本主義ではうまくお金を稼ぐことができずない人にも、活躍のチャンスがめぐってくると期待するのです。
しかし、仮想通貨以外の企業ポイントという決済方法でも、また中央政府との軋轢が発生します。
例えば、ある企業がポイント(企業通貨)を発行した場合、通貨と認識されますが、個人も同じ企業通貨を使ってその企業にモノやサービスを販売して生計をたてた場合、税金を企業通貨で払うことは可能なのか? 同じく仮想通貨の流通量が国定通貨を超えた場合、現在各国が行っているように、為替操作により経済安定を図ることが困難になってきますが、それを国民は支持するのか?
さらに突き詰めれば、国という枠組みじたいを再考せざるを得ないところまでたどりついてしまうのではないでしょうか。
「一方で、50歳前後の方からすれば、スマホゲームに課金したり、ライブ配信に「投げ銭」を払ったり、ビットコインを買っている人たちの感覚はよくわからないと思います」と著者に指摘される世代に私は属していますが、インターネットがない時代と現在を比較することができるだけに、インターネットやSNSの出現によっていかに経済の世界がフラット化したかをよくわかっていると自覚しています。
しかし、一方で、通貨発行権や徴税権に代表される国家権力の世界は、まがりなりにもある程度の自由が許されている資本主義経済とはけた違いの利権があり、不可侵の領域が多いのも事実です。
著者の世代の方々が仮想通貨をはじめとする新しいデジタル・テクノロジーを武器に、どう「国家」に対峙し、これまでとはまったく違った枠組みの世界的コミュニティーを形成していくことができるのか、これから注目していきたいと思います。 |
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