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ASIAN NOMAD LIFE2019.04.11 Thursday
マレーシア映画『光 Guang』にみる障がい者と健常者の共存の秘訣とは?
昨年公開された(シンガポールでは先月から公開)マレーシア映画『光 Guang』を観てきました。
こちらはこの映画の元になった2011年の同名のショートフィルム。監督自身が主人公の兄を演じていて、あらすじがわかります。
主人公、文光は自閉症の27歳。母と死別後、故郷から首都クアラルンプールに出てきて、弟と一緒に暮らしています。しかし、自閉症をもつ彼は何度面接しても仕事が決まらず、何とか弟が知人に頼みこんでもらった仕事も同僚とコミュニケーションができないため、すぐに首になってしまいます。
そんな彼が憑りつかれたのが、グラスやガラスの器の収集。これらを叩いたときに出る音をメガヘルツ単位で言い当て、その音で幼い頃の母との思い出の音楽を再現することに固執していきます。
しかしその熱中によってさらに兄弟2人の日常生活は危機に瀕し、ある事件をきっかけにたまりかねた弟が日頃の憤懣を文光にぶつけ、文光は家から姿を消してしまいます。
必死に兄を探し回る弟。その捜索の旅の中で、弟は母との思い出をたどり、兄がかけがえのない家族だということを再認識。そしてある日ひょっこり家に戻った文光が、グラスを使って創り上げたものを見てとめどない涙を流す弟…。
自閉症をもつ兄と弟の物語はダスティン・ホフマンとトム・クルーズが演じた『レインマン』が有名ですが、この映画ではさらにアジア的な濃密な家族愛を描き、また、彼らに寄りそうように手を差し伸べるクアラルンプールの華人コミュニティーの様子が語られます(実際にこの映画は自閉症の兄をもつクエ監督の半自伝的作品であり、映画の終わりには実在の兄が撮影現場で楽しそうにキャストやスタッフたちと過ごしている様子が加えられています)。
「兄の笑顔にいつも癒されてきた」というクエ監督ですが、この映画を作った目的について、
と語っています。
例えば、あるシーンに兄を「白痴 retarded」と呼ばれて怒り狂う弟の様子が描かれますが、恐らくこれは実際にあったことではないかと推察します。というのも、以前、ADHDの我が家の娘が家に帰ってきて「今日、友達から"retarded”と言われた」と報告したときに夫が怒り狂ったのをよく覚えているからです。
また、シャツのラベルをすべて自分で切ってしまうところとか(体にあたったときに不快と感じるためだろうと思います)、他の人と弟が会話しているときにいきなり会話に入ってきて関係ない話をしてしまうところとか、自分がどうしても欲しいと思うものがあると、悪いとわかっていてもそれを黙ってもってきてしまうところとか、あまりにも共通点が多く、やはり自閉症とADHDは根本的には同じ障がいではないかと感じざるをえませんでした。
(もう一つ、自閉症児の特徴の一つと言われているものに、幼児時代のつま先立ち歩きがありますが、ADHDの我が家の娘もつい2年ほど前まで、何度注意してもつま先立ち歩きが治りませんでした)
このように、自閉症やADHDなどの障がいをもつ人々が、どうしてそのような行動をしてしまうのか? そして家族として、隣人としてどう彼らを理解し、彼らとどのように共存していけるのか、その答えを模索したのがこの映画です。
物語は、文光がその音に対する鋭敏な才能を活かしてぴったりの職場に就職してハッピーエンドとなるのですが、残念ながら、現実の世界ではそのような幸福な結末を得られる人々は稀だと思います。
先日、中高年の引きこもり61万人というかなりショッキングな内閣府の調査結果が発表されて大きな問題となっていますが、おそらくこの中には少なくない数の自閉症やADHDなどの障がいをもつ人々が含まれているはずです。文字通り、障がい者本人とその家族は、一生涯障がいと共に生きていかなければならないのです。
しかしそのような状況の中でも、障がいをもつ家族のメンバーとそうでないメンバーが助け合い、さらにその家族を周囲の人々が見守り、励まし、必要があれば力を貸すという社会の実現こそが、この映画の伝えたいメッセージではないでしょうか。
失踪した文光を探しに旅に出る弟のために車を出し、仕事を休んで何日も捜索につき合って「なぜ自分だけが犠牲にならなくてはならないんだ?」と怒りをぶつける弟を「でも文光はかけがえのない兄じゃないか?」とこんこんと諭す職場のボス。
兄弟だけの物語でなく、彼や兄弟をとりまくその他の周囲の人々の存在もまた、この映画の重要な伏線になっているのです。障がいを家族だけの問題ととらえるのではなく、周囲が積極的に障がい者がいる家族を支えることも、この問題を考えるうえで非常に重要なファクターなのだと思います。
最後になりましたが、健常者(100%健康な人などいませんのでこの呼称が妥当であるとは思えませんが、他に適当な言葉が思いつかないので便宜的に使います)にはわかりにくい自閉症の人々の思考回路、彼らが実際にどんなことを考え、どのように世界を認知をしているかの一例がわかる本をご紹介します。
自閉症やADHDなどの障がいをもつ人々が決して「白痴 reterded」などではなく、私たちとまったく同じ人々であること、ただそのinputとoutputの仕方が若干異なっているだけだということがとてもよくわかる本です。 2019.03.02 Saturday
映画評:『クレイジー・リッチ!』〜おとぎの国のシンガポールの華やかな人々
シンガポール国立大学のマンスリー無料映画上映会に行ってきました。
今月の映画は、2018年のハリウッド映画『クレイジー・リッチ!』。
原作はこちら。
シンガポールを舞台にした、貧しい(といっても史上最年少でニューヨークの大学の経済学教授になった超エリート)母子家庭に育ったレイチェルと、シンガポール随一の大富豪の跡継ぎ息子ニックが友人の結婚式出席のためにシンガポールを訪れ(ニックは里帰りだけど本当の目的は彼女を家族に紹介すること)、大富豪たちの愛憎まみえるドタバタ劇に巻き込まれるというコメディー。
現代版身分違いの恋の2人の恋愛が成就するのか、それとも2人の仲を裂こうとするニックの母の思い通りに別れることになるのか・・・。
アメリカではチャイニーズ系の団体が全米で無料上映会を開いて大ヒットに貢献したそうですが、それもうなずけるのは、とにかくチャイニーズ、華人しか登場しない。舞台はシンガポールにも関わらず、台湾系、香港系、マレーシア系とさまざまな華人たちが登場してきて、メインの英語の他に広東語、北京語、福建語とみながみなそれぞれの言葉を操ります(ただしメインランド、中華人民共和国の人は背景以外に全く登場せず、明確に一線を引いている)。
この映画の最大の見所は、ハリウッドセレブなんてちょろいと思わせてくれるくらいの、度肝を抜かれるような超豪華な大金持ちの世界。誠にクレイジー。
例えば、人里離れた広大な敷地の中の家に辿りつくまではジャングルの道なき道を進み、やっと門まで辿りついたと思うと武装したインド人(グルカ兵かも)に止められる。大勢の客を招いて超豪邸で開かれる”内輪の”夕食会にはバンドが登場しレストラン並みの数のコックを動員。
結婚式前のバチェラー・パーティー。男性たちはヘリコプターで治外法権の国際海域に停泊させた巨大コンテナ船まで飛び、そこで何でもありのどんちゃん騒ぎ。女性たちは離島のリゾートを借り切って無料ショッピング(ドレス選び放題)にエステ三昧。
宝石の買い物は超高級ブランドに個室で新作を紹介され、1億円以上するイヤリングを即決で購入。
などなど、常軌を逸したお金の使い方がこれでもかと登場しますが、ただのギャグではなくて「あー、シンガポールだったらこれもありかもね」と思わされるところがミソ。世界の果てまで納税義務が追いかけてくるアメリカ人じゃあこうはいかない。まさにワンダーランドです。
ビバ、タックス・ヘイブン!
その一方で、若い2人の純情な愛と、それを許さない母との葛藤も見もの。
これぞ華人の神髄! アメリカ人には理解不能。でも華人だったら誰でもわかる。
彼らの錬金術の裏にはこのような不断の努力がセットでついてくるのです。日本の封建制なんて足元にも及ばない。
そういえば『ラ・マン(愛人)』もそういう映画でした。舞台はベトナムだったけど。理性の国からやってきたデュラスの目には、裕福なチャイニーズの男はただの女々しく無力な人間としか映らない。
母役のマレーシア女優、ミシェル・ヨー、黙って立ってるだけでものすごい迫力。怖いです。ケイト・ブランシェットに匹敵するくらいの凄み。
最後がどうなるのかはお楽しみ。さすがハリウッド映画と納得のエンディングです。
結局、大富豪でも庶民でも、内情はたいして変わらない、というお決まりのストーリー展開ではありますが、この桁外れなおとぎの国の様子を見るだけでも十分観る価値があると思います。
セントーサ島豪邸のガレージにポルシェ数台置いてあるくらいじゃまだまだ本当の金持ちとは言えませんね、シンガポールでは。という教訓もこめて。 2019.03.01 Friday
映画評:『グリーンブック』〜 プロパガンダでは差別はなくならない。
アカデミー賞作品賞受賞映画『グリーンブック』を観てきました。
1962年晩秋。イタリア系労働者階級出身の用心棒兼運転手のトニーと、アフリカ系アメリカ人の高名なピアニストでカーネギーホール上階に住んでいる超インテリのドク(博士)2人が、コンサートツアーで南部の諸都市をキャデラックで巡るロードムービー。
まだ黒人が公民権を得ていない時代。東部ニューヨークではトニーの妻が黒人のことを「ニグロ」ではなく「カラード(有色人種)」と呼んだり、修理にやってきた配管工に飲み物を出したりする程度には差別がなくなってきていますが、夫のトニーは飲み物を出したコップをゴミ箱に捨てるほどの差別主義者。しかし、家族の生活費を稼ぐために仕方なくドクの運転手になります。
いっぽうのドクは、白人の音楽であるクラシックピアノ奏者として世界的名声を得ており、教養も豊か。しかし、それゆえに自分自身の家族を含めた一般の黒人とは隔離された生活を送っており、自分のアイデンティティを求めて「東部で演奏すれば3倍の収入になる」という環境をわざわざ棒に振って、2カ月間の南部公演の旅に出るのです。
最初はまったく話がかみ合わない2人ですが、南部でのさまざまな差別や理不尽な対応に対処しながら旅を続けていく間に、互いに胸襟を開き、尊敬の念を抱くように。そして最後には、まるで家族の一員のようにドクを温かく迎えるファミリー。
この作品のオスカー受賞について非難の声も上がっているようですが、私は次の3点で特にこの作品を高く評価します。
1.ユーモアあふれる作品であること この映画、分類はシリアスドラマではなく、コメディーです。 とにかく脚本がすばらしい。 最初にトニーがドクを紹介してくれる大物に取り入るところから、3分に1度は笑わせてくれます。そしてその後、ほろっとくるシーンが挿入される。 差別はよくない、といくら大上段に構えてプロパガンダを展開しても、人間の偏見というのはそうそう簡単に変わらないもの。それを突き崩すには、笑いの力が最も大きいのではないでしょうか。 アメリカ南部の差別にユーモアで立ち向かう、という意味では、私の最も好きな映画の一つである『フライド・グリーン・トマト』を思い出しました。
2.音楽の力の素晴らしさ 最初にトニーが「ドク、すげえ!」と感嘆するのは、初めて彼の演奏を聴く場面。 ドクがただのインテリであれば「世界の違う人」で終わってしまう設定なのですが、トニーが全く知らない(彼はカーネギーホールがどういう場所なのかも知らない)クラシック音楽を聴いても感動してしまうほどに、ピアニストであるドクは最高の「職人」なのです。 また、黒人は差別するのが当たり前なトニーも、ラジオで聴く音楽のスターは黒人ばかり。ドクに「こんなすごい曲知らないの?」と軽口をたたくほど、黒人音楽になじんでいます。音楽の力は笑いと同じく、聴く人に感動をもたらすという意味で差別を乗り越えるために不可欠なのです。
3.ずば抜けた役者の演技力 トニー役のヴィゴ・モーテンセンもドク役のマハーシャラ・アリもとにかく芸達者。 『ロード・オブ・ザ・リング』のヒーローがあれだけ太ってまったく違う人格になったり、超絶技巧ピアノ曲に合わせて長い指を優雅に動かしたり、もはや同じ人間とは思えない大技の連続ですが、助演男優賞を受賞したマハーシャラ・アリの演技はずば抜けていました。 黒人差別を当然のものと考える南部の裕福な聴衆たちの前で、「東部から来た高名なピアニストのダン・シャーリー氏です!」と紹介される度に浮かべるひきつった笑顔が特に印象的。彼らがどれだけ傷つけられてきたかを象徴する演技です。 この映画は彼ら2人の役者の力がなかったら成立しなかったと思います。2人をキャスティングした監督の力量に感服です。
黒人をテーマにした映画というと、今年やはりアカデミー賞3部門を受賞した『ブラックパンサー』があります。
こちらも「ブラック・イズ・ビューティフル」を地で行った映画という意味では高く評価できますが、その他の人種との接点がまったくなかったところが残念といえば残念。 この映画、うちの娘とそのクラスメートのマレー系の子と観たところ、2人とも感情移入できなかったようでかなり引いていました。子供向きだと思ったのに…。
日本では『グリーンブック』今日から公開ですね。お金払って劇場で観て、決して損のない映画だと思います! 2018.03.31 Saturday
映画評:『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』〜苦難の時に非ポピュリストを選んだ英国
JUGEMテーマ:政治
『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(原題:Darkest Hour)を観てきました。
舞台は1940年5月のロンドン。ヒトラー率いるドイツ軍がヨーロッパ諸国を次々と侵攻していく傍らで、イギリスはドイツ軍に対して抗戦するか、もしくはイタリアを通じて和平交渉に入り独立国としての立場を失うかの瀬戸際に立たれています。
戦況が悪化する中チェンバレン首相が失脚。
新首相に選出されたチャーチルはこのとき65歳。
「イギリスの独立を守るために不退転の決意で戦う」というチャーチルに対し、政敵は自己満足のために無辜の若者たちをみすみす戦場で死なせるつもりかとドイツ同盟国のイタリアとの和平を迫り、自らの秘書からさえも考え方についていけないと非難される体たらく。チャーチル自身も犠牲になった兵士たちを思って深く傷つき、悩む日々を送ります。
ドイツ軍の攻撃により無数の難民たちが故郷を追われて彷徨う中、フランス指導者たちは「すべてコントロールされている」と胸を張り、イギリスの議員たちは危機的状況の中でも政局に明け暮れ、「見たくないものは見ない」ポピュリストのディシジョン・メーカーたちはひたすら決定を後延ばしにし、その場しのぎの対応に終始し続けるのです。
その中でチャーチルはその言動や行動によりあちこちで軋轢を生じながらも、自らの信念を意固地に守り続けて議会や国王、そして国民の信頼を勝ち得ていきます。
全編を通して、映画はチャーチルが演説原稿を起草し推敲するシーンで進められていきますが、正直なところチャーチルは決して演説がうまいわけではありません。最後のシーンの演説の実録を聞いても、滑舌が悪くドラマチックな要素はまったくありません(映画ではもう少しマシですが)。
むしろ原稿を棒読みしているような口調、事実や数字を細かく読みあげる癖、関係代名詞を多用して次の文章につなげていくようなレトリックを多用した演説は、声のトーンや口調を巧妙に変え続け直接強く聴衆の心情に訴えかけるヒトラーの演説に比べると、あまりの違いに驚かされます(チャーチルはポピュリストとしてのヒトラーを非常に嫌悪したようで、ヒトラーの演説放送を消す場面も登場します)。
チャーチルが首相になる前、決して国民に高い人気がある政治家でなかったのも頷けるのです。
この映画を観て理解できるのは、恐らくイギリスが平和な時代であったなら、チャーチルが首相になることはなかったであろうこと。そして、国家が決定的に困難な時代を迎えたとき、ヒトラーのようなポピュリストを選ぶのか、チャーチルのようなアンチ・ポピュリストを選ぶのか、もしくは政局に身をやつして何も決められない、決めないリーダーを選ぶのか、私たちにはこの3つの選択肢しかないということではないかと思います。 2018.03.14 Wednesday
映画レビュー : 「ブラックパンサー」〜 オバマ大統領後の世界
娘の小学校が学期中休みなので、子連れでディズニー映画「ブラックパンサー」を観てました。 前評判通りマーベリック・スタジオとディズニーのコンビの娯楽超大作だけあって、大人でも十分楽しめる内容。いや、大人だからこそかもしれませんが、この作品が今、子供をターゲットにしたディズニーからリリースされて、大ヒットしている現実に感慨ひとしおでした。 全編を通して、とにかく映像が美しい。登場人物のほとんどを占める黒人の俳優さん女優さんがゴージャス(脇役の白人俳優さんたちがみすぼらしく見えるほど)。そしてアフリカの自然がスペクタクル。 まさに、ブラック・イズ・ビューティフル。どこをとっても、これまでの白人中心のハリウッド映画にひけをとらないどころか、逆に進化している感があるのです。 例えばアクションシーン。悪役の白人が機関銃を撃ちまくるのに対し「なんて原始的な」と吐き捨てて猫のようにしなやかにジャンプしてハイテク兵器の槍で仕留める女将軍。 敵も味方も個性豊かで衣装も絢爛ですが、表層的な違いにとどまらず、民俗学的な行動様式も取り入れられ、いわゆるアメリカ的な善悪一辺倒の価値観を多少逸脱した展開には「ロード・オブ・ザ・リング」のような物語の奥行きも感じさせます。 さらに、世界を舞台にしながらもメインの主人公たちは悪役も善玉も全てが黒人。この前提に違和感をまったく感じないのはやはり、この映画が世界最強国のアメリカでオバマ氏が大統領になった後だからではないでしょうか。 同様に、主人公をサポートする恋人、家族(ギークな妹と気丈な母)、将軍は全て女性。これもアナ雪がなかったら荒唐無稽な筋立てに思えたかもしれません。 つまりこの映画は、2018年現在のアメリカで、作られるべくして作られた作品なのだと思います。 この映画やこれに続くであろう同様の映画を観て育った世代は、必然的に人種差別や性差別からさらに自由になっていくだろうと想像するだに明るい気持ちになります。 もう一つ、印象的だったのは、アフリカ、アメリカ以外にアジアで選ばれたロケ地が韓国釜山だったこと。以前だったら東京か上海だったかもしれませんが、韓国はサムソンやKポップの成功で、現在、間違いなくアジアで最もホットな国と認識されているように感じます。 2017.04.11 Tuesday
もう一つの”LaLaLand"〜フランス映画「アーティスト」
JUGEMテーマ:ビジネス
現在、シンガポールではフレンチ・フェスティバル・シンガポール「Voilah!」が開催されています。
先週末のオープニングの土曜日には、我が家でも家族そろってGardens by the Bayでのファンタジックな大道芸に続き、「アーティスト」野外映画上映会に行ってきました。
「アーティスト」は、2011年製作のフランス映画で、作品賞、監督賞、主演男優賞など第84回アカデミー賞で五冠に輝いた作品。舞台はハリウッド、スターをめざす駆け出し女優、ミュージカルなど、昨年大ヒットした「LaLaLand」を彷彿とさせる内容で、鑑賞後もやはりとてもポジティブで温かい気持ちになれる、というところでも共通点が多いと思いました。
しかし、フランス映画ならではのひねりも登場します。
●主人公である人気スターの俳優ジョージの活躍の場が「サイレント映画」であり、新しいテクノロジーであるトーキー映画台頭の波に乗り遅れてあれよあれよという間に成功の階段から転げ落ちてしまうこと。
●大スターのジョージに憧れて田舎から出てきた女優の卵ペピーはジョージによって映画界の扉を開けられ、ジョージの人気凋落に反比例して、トーキー映画時代の寵児として大スターにのし上がっていくこと。
●そして最後は、すっかり落ちぶれて自殺未遂まで起こしたジョージの再起をかけて、ペピーとジョージが2人で協力して新しい映画の可能性を開く、という結末に終わるということ。
映画「LaLaLand」では、主人公2人とも従来通り「努力して成功」パターンを手に入れますが、「アーティスト」では、産業構造の変化の流れに乗ったり、逆に落ちこぼれてしまったりする主人公たちが、2人で知恵を絞って工夫しながらイノベーションを創造する、というストーリーになっているのです。
もう一つ、忘れてはならないのは、この映画がフランス人監督による、フランス人俳優(主人公2人)のための映画だということでしょう。
1950年代から60年代にかけて世界の映画界を席巻したフランス映画ですが、国際マーケットの中ではここのところずっとハリウッド映画に押され、一時の輝きはありません。その最大の理由は「フランス語」という言語の壁でしょう。過去数十年間のうちに英語は間違いなく世界の共通言語となり、英語を使って製作されるハリウッド映画が映画界のスタンダードとなってしまったのです。
例えば、今週金曜日に日本でも公開される予定の、チャン・イーモウ監督、マット・ダイモンを主演に中国や香港の大スターをキャストし、巨額の製作費をかけて製作された(でもさんざん酷評された)米中合作映画「グレート・ウォール」も、メインターゲットの市場は中国にもかかわらず、言語は英語です。
そのような映画製作環境にあって、英語のネイティブスピーカーでない国出身の俳優たちは、世界の檜舞台に立ちたいと思ってもなかなか活躍の場が広がりません。それを逆手にとったのが「アーティスト」のサイレント映画という設定なのです。
主人公2人は生粋のフランス人ですから、英語はたいしてうまくないか、たとえ話せてもアクセントがあり、通常の映画だったらアメリカ人俳優の役は絶対に演じられないはず。それがサイレント映画という設定により、言語の壁を超えて主役2人がアメリカ人を演じきったところにこの映画のもう一つの醍醐味があります。
最後に、この映画の見どころをもうひとつ。「時計仕掛けのオレンジ」の怪優マルコム・マクドウェルが出演。思わずにんまりしてしまうシーンもあり、「さすがフランスのエスプリ!」と唸らせてくれること間違いありません。 |
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