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ASIAN NOMAD LIFE2017.11.16 Thursday
「自分と他人の権利」を同様に尊重する大人の社会
JUGEMテーマ:国際社会 ■イスラム教女性のヒジャブやブルカ禁止にみる欧州諸国の根本姿勢 今年3月、欧州司法裁判所が、EU加盟国の企業が職場でイスラム教女性の職場でのヒジャブ(髪を覆うスカーフ)を禁止することができる、という判決を下しました。
これは2003年、ベルギーのイスラム教女性が、働いていた職場でヒジャブ着用を理由に解雇になったことを不服として起こした裁判で、判決の理由は、宗教による差別は禁止されているが、企業が社内規定で「政治的、哲学的、または宗教的信条を表わすもの」を身につけることを禁止しても直接的な差別には当たらないというものでした。
機を同じくして、ドイツのバイエルン州でも8月から、公共施設内で顔全体を覆うブルカやニカブの着用を禁止。これには独メルケル首相も「法の規制が可能な限り、禁止されるべきです。私たちの法律は社会儀礼や、部族や家族間のルール、そしてシャーリア(イスラム法)より優先されます。このことは明確に説明していく必要があります。人とコミュニケーションするときは、顔を見せることが重要なのです」」と、支持を表明しています。
フランスではさらに以前から、公立学校ではヒジャブを、公共の場所ではブルカやニカブを禁止しており、ブルカとニカブについては、ベルギーやスイスのティチーノ州でも禁止(スイスの全国的禁止法案は上院で否決)されています。 ティチーノ州のブルカ禁止令は観光客にも適用されますが、今年初めて女性の車の運転を認めた厳格なイスラム教国のサウジアラビアは、「法を遵守」するよう呼び掛けており、国家間の深刻な対立は起きていません。
女性の顔をすべて覆ってしまうブルカやニカブと違い、頭を覆うだけのヒジャブについては欧州でも大方の対応は緩やかで、EU脱退を表明したイギリスでは、ヒジャブを警官の制服の一部に取り入れるなど、ヒジャブについては欧州でも対応が分かれるようです。
いっぽうで、衛生上の理由からイギリスの一部病院ではスタッフのヒジャブ着用を禁止しており、こちらは論争が続いています。
これらのニュースを読んでいると、おぼろげながら大量の移民を受け入れつつ将来に向けて進んでいこうとする欧州諸国の考え方が見えてくるような気がします。
それは、個人の思想・信条を尊重しながらも、様々な思想・信条をもつ人々が共生する公共の場では、それを公にしないでほしい、端的に言えば「他の人が見たくないといっているものを見せないでください」ということではないでしょうか?
■「猥褻」や「不愉快」を禁じる功利主義的妥協法 英語では通常、猥褻な事柄を形容するのに「obscene」という言葉が使われます。
前回のブログ記事で、シンガポールであるアパレルメーカーのビル広告が撤去された、という話を書きましたが、このときも「obscene」という言葉が使われました。
もう少し詳しくこの顛末を説明すると、ある若者向けのアパレルブランドが、オーチャードロードという、日本でいえば銀座に相当するショッピング街のビルに男性の裸の上半身の写真の巨大ポスターを設置。これを見た市民が新聞に「このようなobsceneな広告は景観にそぐわず不快である」と投稿し、これに賛同する人々が口々に同様の感想を表明したことから、自主的に撤去されたのです。
辞書で調べるとわかりますが、obsceneという言葉には、性的な「猥褻」という意味以外にも、品位を乱すとか、非常に不愉快であるとか、道徳的に許されない、というような意味があります(例えば、あるオンライン辞書には「The salaries some bankers earn are obscene.」という例文が掲載されています)。
確かに、ビーチやプールに行けば上半身裸の男性は大勢いますし、それを猥褻であるという人はいないでしょう。しかし、もし銀座にこのような恰好の男性が大勢歩いていたら、日本でも非難されることは間違いありません。
欧州裁判所の判決もこの考え方に近いものがあると思います。
例えば、職場に「トランプ大統領の退陣を!」とか「ナチス万歳!」とか書いたメッセージTシャツを着ていったとしたらその意見に賛同できない人は仕事に集中できないでしょうし、熱心な仏教徒がムダな殺生を許さないとしてゴキブリがいる環境を病院で放置したら、病院運営そのものが成り立ちません。
これは極端な例かもしれませんが、いろいろな出自や考え方の人たちが集まる欧州だからこそ、個人は尊重しながらも最大公約数の利益を追求するというベンサム的功利主義の妥協的手法をとっているのだと思います。
もちろん、ここには「最大多数の」という意味も含まれますので、将来的に欧州のイスラム人口が増えた場合、これらの規制が正反対になる可能性も否定できません。
■「成熟した大人の社会」は他人の権利に寛容と規制で臨む 現在の日本での受動喫煙防止法の流れも、同じ考え方からきていると思います(個人の権利まで否定する自宅での喫煙禁止には議論の余地があると思いますが)。
経済発展ただ中の新興国では通常、自分や自分の家族の豊かさの追求に必死で、他人の権利や公衆道徳などは二の次です。
日本でも同様で、私が子供の頃、高度経済真っ最中の時代には、とにかく公衆トイレが汚く、家族旅行にでかけるときもトイレのことを考えただけで憂鬱になった記憶があります。また、バブル期あたりまでは、職場に女性のヌードポスターが貼ってあったり、男性上司が挨拶がわりにOLのお尻を触るなど日常茶飯事でした。それらを考えると、日本も経済だけでなく社会的にもこれだけ成熟したのだという感慨を覚えます。
日本も、ドイツをはじめとする欧州も、70年前の焼け跡から復活して経済成長を遂げ、「成熟した大人の社会」になった現在だからこそ、自分自身と他人の幸福追求の権利に対し、同等な想像力をもって再考するステージに立たされているのだと思います。 |
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