ASIAN NOMAD LIFE

日本、香港、中国で生活・仕事をしてきてシンガポール在住8年目。
<< 「出戻り」転職のススメ | main | 久美子社長が社長を辞められなかった本当の理由 〜 大塚家具騒動にみる事業継承のもう一つの問題点 >>
故リー・クワン・ユーシンガポール初代首相にみる偉大なリーダーの条件
0
    JUGEMテーマ:シンガポール
    シンガポール建国の祖、初代首相リー・クワン・ユー氏(91)が23日、亡くなりました。
     
    リー・クワン・ユー元首相は今年に入ってから体調悪化が伝えられていましたので、ほとんどの国民にとっては「想定内」であり、訃報を受けても大きな混乱はありません。しかし、昨日まで遺体が安置されていた大統領府には弔問に訪れる人々が8時間待ちの長蛇の列を作り、あちこちに設けられた弔問所にも最後のお別れをするために大勢の人々が集まるなど、改めてこの指導者に寄せるシンガポール人の思慕の情の深さを思い知らされます。
     
    海外ではシンガポールをアジア随一の豊かな国にした経済政策ばかりが評価されているきらいがありますが、連日この地で報道される、テレビやラジオ、新聞、ネットメディアなどの追悼特集では、彼のまた違った一面がみえてきます。特に彼を直接知るさまざまな人々の証言から、リー元首相のリーダーとしての素晴らしい資質が浮かび上がってきますので、その一部をお伝えしたいと思います。
     
    ■逆境の中でも新しい試みに挑戦し続け、決してあきらめない。
    第二次世界大戦後、シンガポールは大変な貧困の中で復興のスタートを切ります。イギリス植民地支配から解放され、マレーシア連邦に加盟したものの政治家リー・クワン・ユーの台頭を恐れたマレーシア政府から分離独立を迫られ、リー元首相もシンガポール住民も望まないまま、半ば強制的にマレーシアからの独立させられたのです。
     
    当時のシンガポールの人口は200万人弱。土地も資源もないのに失業率は10%を超え、人々は劣悪な住環境の中でひしめき合って暮らしていました。識字率は低く、8割以上の人が高等教育を受けられず、平均寿命も60歳代でした。当時の他の多くの発展途上国と同じく、山積した課題を抱えてのスタートでした。
     
    しかし、これらに加えシンガポールにとって致命的な悪条件は「水がない」ことでした。マレーシアからの水の補給源であるジョホール水道だけがシンガポールの生命線で、生殺与奪の権利を事実上の敵国に握られていたのです。
     
    リー元首相は逆境の中、シンガポール版ニューディール政策とも呼べる公団住宅建設や、「クリーン&グリーン」を標語に緑化を促進しゴミのぽい捨てなどを徹底的に罰金で取り締まる政策、工業団地を設置して重点的に製造業やサービス業などを政府主導で育成していく政策、政府主導で厳格にコントロールする金融政策などを、他に類を見ない強烈なリーダーシップで推進していきます。
     
    その成果の一つが、悲願であった水のリサイクル施設でした。2002年、下水を浄化して作られた「NEWater」と名付けられた水道水を、カメラの前で嬉しそうに飲むリー元首相の映像が今も私の頭の中に鮮烈に焼ついていますが、このときほどリー元首相の執念を感じた瞬間はありませんでした。決して諦めなかったからこそ、達成することのできた成果だと思います。
     
    ■失敗を認め、素早く方針転換を行う。
    もちろんリー元首相の政策がすべて成功したわけではありません。建国初期には増え続ける人口増加を抑制するため「2人っ子」政策を採用しましたものの、その後極端な人口減少が問題となり、結果的に多くの移民や外国人労働者を受け入れざるを得なくなりました。
     
    政府主導で中国での経済開発も非常に早期から行っていましたが、失敗だったと厳しい評価を下され大赤字を出した蘇州工業団地のような例もあります。また、近年は移民や外国人労働者の受け入れにより国民の職が奪われているという不満が、前回の選挙では歴史的な与党議席減につながりました(といっても第一党の地位は揺るぎませんが)。
     
    その中で、リー元首相と彼が率いてきた政党PAPPeople’s Action Party)はこれらの失敗を正面から受け止め、その都度修正して時代に即した政策転換を行ってきました。「シンガポール人は従順で政府の命令に何でも従う」というまことしやかな論を展開する方もいらっしゃるようですが、実際にこの国で暮らしている私の体感とは大きく異なります。
     
    現在、シンガポール建国50周年の一環として政府がスポンサーとなってICONS OF SGというキャンペーンが行われています。このキャンペーンで使われている「何が私たちをシンガポール人にしているか」というテーマのシールには、マーライオンやドリアンなどのシンガポール名物以外に、ERP(車の交通量をコントロールするための課金制度)やNS(徴兵制の軍隊)など政治的なテーマも入っています。思わず笑ってしまったのは「Complain King」(不平不満王)という一枚が入っていたことです。
     
    シンガポール人は従順どころか、しょっちゅう政府や政策への不平不満を口にします。ジョークの形で表現することも多いのですが、新聞の投書欄への投稿はもとより、役所への電話、SNSやブログへの書きこみも日常茶飯事です(ただし根も葉もないことを書くと逆に政府から訴えられて巨額の賠償金を請求されるケースもあるので要注意)。
     
    私がシンガポールのシステムで特に感心したのは、各選挙区の議員に住民が直接会ってComplainできる日が定められていることです。我が家でも夫がこの制度を利用したことがあり、役所の対応に非常に困っていると議員に説明したところ、翌週から手続きがすぐに改善されたのには驚きました。
     
    このような制度を設けていることからもわかるように、リー元首相の作ってきた政府は決して国民が唯々諾々と従うだけの強圧的で独裁的なものではなく、政策の失敗を国民が感じればフィードバックが行われ、それをまた政府が新たな政策に反映していくというシステムの元に成立しているのです。その意味では、むしろ謙虚とさえいえると思います。
     
    リー元首相と長く仕事をしてきた同僚によれば、彼は決して「イエスマン」を好まなかったといいます。ただ彼に忠実なだけでは別の意見を聞くことができず、有用でない、と判断されたからだそうです。例え自分の意に沿わなくても他人の批判に耳を傾け、自らの失敗を素直に認めてよりよい方向に向かって行動を起こせることも、リーダーには不可欠な条件です。
     
    ■現実的に、合理的に物事を考え、行動する。
    日本でもCMなどに使用されて有名な、船の形をした建造物が載っているホテル、マリーナ・ベイ・サンズは、セントーサ島にあるリゾートワールドと並び、カジノがあることで有名です。カジノを呼び物に、中国人を筆頭に、世界各地からギャンブル目当ての観光客を呼び寄せています。
     
    質素倹約を美徳とし、景気が良くても次の不景気に備えて贅沢を戒め、「カジノは嫌いだ。生きているうちは(カジノ解禁は)絶対にない」と公言してきたリー元首相がカジノ誘致に踏み切ったのは、現実問題として一定層の観光客を呼び込むためにやむをえない選択だったのでしょう(観光客は無料ですが、シンガポール人からは高額の入場料を徴収するなど、国民のギャンブル依存症を防ぐための一定の対策はとられています)。
     
    しかし、彼はただカジノを作っただけではありませんでした。マリーナ・ベイ・サンズの真向いには、シンガポールが誇る世界最大規模の植物園、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイを建設し、ほぼ同時期にオープンさせています。この施設はシンガポール国民に対する緑化教育の目的が強い一面もありますが、現在売り出し中の観光スポットの一つであり、マリーナ・ベイ・サンズからブリッジを渡って直接歩いて行ける距離であり、カジノを訪れた人々の多くがこの植物園を訪れています。そしてさらにここから足を伸ばすと、リー元首相ご自慢の浄水場まで歩いて行くことができるのです。
     
    不本意ながらも観光振興のためにカジノを建設する、という現実的な選択の裏には、お気に入りの政策である緑化事業や水事業を外国人にアピールするという合理的な目的も隠れていました。このように、理想主義やイデオロギーに固執するだけでなく、臨機応変に現実的な対応ができるところも、彼のリーダーとしての優れた特質であったと思います。
     
    ■伝える努力を惜しまない。
    リー元首相は演説の人です。
     
    若いときはどちらかというと高めの声で、ある程度の年齢になってからは声が低くなり少し抑制された非常に美しい英語で、はっきりとわかりやすく、平易な言葉で演説をしてきました。彼自身は英語を話す華人の家庭に育ち、イギリスのケンブリッジ大学を卒業した生粋のイングリッシュ・スピーカーでしたが、マレー語はもともと話せたようです。しかしそれに満足することなく、マレー語の学習もたいへん熱心にしていたそうで、マラヤ連邦の頃のマレー語演説も立派なものです。
     
    追悼特集で初めて知って驚いたのは、彼が中国語(標準北京語)を30歳を過ぎてから努力して習得したという事実です。当時すでに多忙な政治家としてのスタートを切っていたのにもかかわらず、シンガポール住民の多数を占め、英語もマレー語も話さない華人の人々に訴えたいという一念のため、彼にとってはまったく縁のない言葉である中国語(標準北京語ですので広東省出身の彼の家系では話す人はいなかったはずです)を学び、演説をするまでになったのです(中国語は90歳を過ぎたつい最近まで、家庭教師について継続的に学んでいたそうです)。
     
    リー元首相の演説を聞いていると、それを聞く人の立場に立ち、一言一言を理解してもらえるよう、細心の注意を払って話しているのがよくわかります。欧米や中国の高名な政治家にありがちな、難しい語彙や格言を使うこともなく、ダイレクトに聴衆の琴線に触れるような語りかたもまた、優れたリーダーに不可欠の資質だと思います。
     
    ■原理原則に忠実に、細部を疎かにしない。
    「クリーン&グリーン」政策でのエピソードにはリー元首相の人柄を表す、くすっと笑ってしまうようなエピソードが多くあります。
     
    まだ政策が始まったばかりの頃、「トイレをきれいに使おう」というキャンペーン中のこと(20年ほど前には「トイレを使って水を流さなかったら罰金」という法律が実際にありました)、役所のトイレを使ったリー元首相が真青になって戻ってきたというエピソードがあります。あまりにもトイレが汚かったのでショックを受けたというのです。妻のクア・ゲオ・チュー女史に「まだキャンペーンは始まったばかりなのだからもう少し長い目でみたら」となだめられて平静を取り戻したそうです。
     
    また、シンガポールには一定の高さ以上の木を切るときには、例え自分の家の敷地内でも政府の許可を取らなければならないという法律がありますが、これも緑化政策に一生をかけて取り組んできたリー元首相の執念の成果です。あるとき、大統領府の敷地内に植えられた樹木の一部を防犯上の理由から伐採することが検討されていたそうです。これを聞きつけたリー元首相は激怒し、他の可能性をいろいろと指摘して最終的には伐採計画は流れました。
     
    「本質は細部に宿る」と言われますが、このように、単に法律を作るだけで満足するのではなく、それがどのように実行されているのか、問題はないかを常にチェックし、細部にわたってこだわりぬいたのも指導者リー元首相の真骨頂でしょう。
     
    ■自分の利益のためにではなく、他者のために働く
    リー元首相の多くの演説は「Friends and fellow Singaporeans(友人たちと仲間のシンガポール人たち)」で始まります。
     
    常に彼の言葉から発せられていたメッセージはシンガポールに暮らす人々と同じ目線に立ち、共に国を作っていくことでした。彼にとってはシンガポールは「国家」ではなく、そこに暮らす人々のための場所であり、その環境を良くしていくことこそが使命であると考えていたのです。
     
    人々に質素倹約を常に説いていたリー元首相の生活もまた質素なものでした。着ているものはたいてい同じよれよれのシャツ。自宅も大多数の国民が住んでいるHDBの一室とほとんど変わらない、飾り気のない質素な住居でした。執務中の昼食や夕食は、毎日決まった簡単なものを食べていたそうですし、中国の東北地方に公務ででかけたときには、もったいないからとオーバーコートとブーツを買わずに借りてすませたそうです。
     
    シンガポールの政治家や政府高官に対する高額の報酬は、じゅうぶんな報酬を与えて汚職をさせない目的で設定されたものです。発展途上国にはつきものの汚職を徹底的に取り締まった結果、シンガポールは世界でも類をみないクリーンな国家となり、汚職による政治不信もほぼなくなりました。これを建国のごく早期から行えたのはやはり、リー元首相が私利私欲に決して走らず、それを同じ政治家たちや国民に美徳として繰り返し訴え続けたからだと思います。
     
    ■よき理解者である伴侶をもつ。
    リー元首相の妻、クワ・ゲック・チュー女史はリー元首相より3歳年上。シンガポールのラッフルズ・カレッジではリー元首相とトップを競い合う才媛で、2人そろってのイギリス留学中に結婚。結婚後はファーストレディーとしての公務以外は子育てに専念し、滅多に表舞台には出てきませんでしたが、リー元首相の政治判断に対し、非常に重要な助言を与えていたと言われています。側近がみていても「よくこれだけ話すことがあるな」と感心するほど2人は常に会話を欠かしませんでした。
     
    「翌日にリーおじさんの発言が変わっているときは、だいたい家で奥さんに直すように言われたからだよ」と友人のシンガポール人が冗談まじりに話していましたが、国民からも思慮深く、聡明な首相の妻として尊敬されていました。
     
    リー元首相が50年以上の長期間にわたって第一線の政治家でいられたのも、また、長男であるリー・シェンロン首相が、リー・クワン・ユー元首相と同じく、国民からの絶大な支持を得ているのも、彼女の存在あっての結果なのではないでしょうか。
     
    彼女が病に倒れてから亡くなるまでの数年間、献身的に介護にあたる彼の姿は多くの人を感動させました。2010年に彼女が亡くなってから、リー元首相の姿が以前にもまして老けこんだのは、傍目でみていても痛ましいものでした。心の隙間を埋めるためか、家中の壁を彼女の写真で飾ったそうです。
     

    Without her, I would be a different man, with a different life.  She devoted herself to me and our children.  She was always there when I needed her.”
    「彼女がいなかったら、私は違った人間になり、違った人生を生きていただろう。彼女は私と子供たちにすべてを捧げてくれた。私が必要なとき、彼女はいつもそこにいてくれた」

     
    フルスピードの人生をシンガポールの人々のために捧げた2人が、安らかに眠られますよう、お祈りしています。
     
    | 後藤百合子 | シンガポール社会 | 01:04 | - | - |
    スポンサーサイト
    0
      | スポンサードリンク | - | 01:04 | - | - |
           12
      3456789
      10111213141516
      17181920212223
      24252627282930
      << September 2017 >>
      + PR
      + SELECTED ENTRIES
      + CATEGORIES
      + ARCHIVES
      + MOBILE
      qrcode
      + PROFILE