ASIAN NOMAD LIFE

日本、香港、中国で生活・仕事をしてきてシンガポール在住7年目。
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シンガポールにとってあの戦争とは何だったのか? − チャンギ博物館訪問記
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    JUGEMテーマ:シンガポール
    ■英豪人が訪れるシンガポールで人気の博物館
    日本の敗戦後70年目の8月14日、以前から行きたいと思っていたシンガポールのチャンギチャペル&博物館を訪れました。

    チャンギ空港に近く、中心部から地下鉄とバスを乗り継ぐと優に1時間以上かかる非常に不便な立地ですが、口コミ情報が2億件を超えた世界的旅行サイトTripadvisorでは、シンガポールの観光名所中17位、博物館の中ではトップとなっています。

    Tripadvisorの口コミが圧倒的に多いのは、オーストラリア人とイギリス人。それもそのはず、この場所は日本軍のシンガポール占領中捕虜収容所となっており、POW(Prisonar of war捕虜)の大多数がイギリス人とオーストラリア人だったのです。1フロアしかない小さいスペースの中には、当時この収容所の囚人だった捕虜たちの証言を始め、この時代を生き抜いたシンガポールの庶民たちや、さまざまな国籍の住民たちの言葉と写真、実際に当時使われていたものなどが展示されています。

    まず入館してすぐに見えるのが、イギリス人捕虜が描いた大きく引き伸ばされたイラスト。弱り果てて自分の足で歩くことができない白人捕虜を、同じ捕虜仲間が両方から抱えて運んでいる絵です。ここと隣接するバラックに収容されていた白人捕虜たちの多くは、映画「戦場にかける橋」で描かれ、「死の鉄道」と恐れられた泰緬鉄道の建設に駆り出され、過酷な労働の中で5人に1人が命を落としたといいます。このイラストに描かれているのも極端に悪い栄養状態でマラリヤやコレラなどの疫病にかかり命を落とした兵士です。

    そして、脇の壁には日本軍が太平洋戦争中に進撃をした経路。東は真珠湾から西はチベットまで、あまりにも広大すぎる範囲で、70年以上前にこんなところまで祖父母の世代の人々が故郷を離れ、派兵されていたのかと思うと、気が遠くなるような感覚を覚えました。

    ■占領開始時から無謀な作戦であることを知っていた山下司令官
    そしていよいよ証言を元にした展示が始まります。証言のトップは意外なことに、シンガポールを奇襲し「マレーの虎」と称された山下司令官の言葉。1942年2月、日本軍は連合軍の裏をかく作戦でマレー半島を南下し、油断していた背後からシンガポールに侵攻します。10日間にわたる壮絶な戦いの末、イギリス軍を中心とした連合軍は歴史に残る大敗を喫しましたが、同時に日本軍も相当の被害を受け、実際には連合軍のほうが数において優勢であり、バックアップの兵站も欠如していたことを山下司令官は知っていました。そのため、連合軍に対し迅速な降伏を求めたのです。「我々は数の上でも劣勢、そして兵站ももたないことがわかっていた」とまず、占領そのものが日本軍にとって最初から無理なものであったことを彼が認識していた、と最初に示唆しているのです。

    続いて、シンガポールの庶民や居留していた西洋人たちの証言が始まります。中国やマレー半島北部に日本軍が侵攻していることは彼らも知っていましたが、ほとんどの人々はまさか日本軍がここまでやってくるとは思っていなかったようです。そこをついた奇襲作戦で、いきなり出現した日本軍に対し、市民たちには抵抗する術もありませんでした。そして主として華僑系の市民を対象とした弾圧が始まり(インド人コミニュティーは除外)、「抵抗した」として初日に8人が殺され、斬首されて、その首が市中に晒されました。実際に晒し首の写真があり、その脇には白人捕虜を日本刀で切ろうとしている日本軍人の写真もありました。決して数は多くありませんが、思わず目をそむけたくなるような写真が何枚かありました(シンガポール博物館などにはこの類の写真は展示されていません)。この時日本軍に殺害された華僑系住民の数は5千人とも3万人ともいわれます。

    この他にも「レストランで仕事があるからと連れてこられた」という従軍慰安婦の韓国人の証言や、「日本軍が来るまで空腹なんて感じたことはなかったけれど、食料が配給制になってとにかくいつも空腹だった」という当時子供だった人の証言など、日本軍占領時代がいかにひどかったかを語る証言が延々と続きます。

    ■占領によって変わった西洋人と地元民のパワーバランス
    いろいろな証言の中で特に異彩を放っていたのが、シンガポール建国の父リー・クワン・ユー元首相の発言です。「それまで西洋人は常に『ご主人様』だった。日本人がやってきて、それは変わった」という意味の言葉から、若きリー・クワン・ユーが、日本人による支配をただ恐ろしいものとだけ認識するのではなく(彼自身も日本軍に捕まりましたが、逃げ出して九死に一生を得ました)、西欧列強の植民地経営による白人を頂点としたヒエラルキーが、決して永遠に続くものではないことを悟ったことが紹介されています。

    これは西洋人の側からみても同じだったようで、「毎朝、空腹を抱えて作業に行く私たちに少しばかりの食べ物を与えてくれる老婆がいた。彼女は何度も日本人に叩かれ、止めるように言われたが決して止めなかった。あの老婆には本当に感謝している」という証言や、「それまで現地人は私たちより劣ったものだと考えていたが、それは間違いだった。心から反省している」という証言もありました。


    ■シンガポール建国の父、リー・クワン・ユー元首相が見たもの

    The dark ages had descended on us. It was brutal, cruel. In looking back, I think it was the biggest single political education of my life because, for three and a half years, I saw the meaning of power and how power and politics and government went together, and I also understood how people trapped in a power situation responded because they had to live. One day the British were there, immovable, complete masters; next day, the Japanese, whom we derided, mocked as short, stunted people with short-sighted squint eyes.

    ... the old mechanisms had gone and the old habits of obedience and respect (for the British) had also gone because people had seen them run away (from the Japanese) ... they packed up.

    We were supposed, the local population was supposed to panic when the bombs fell, but we found they panicked more than we did. So it was no longer the old relationship.

    暗黒時代が我々にやってきた。粗暴で残虐だった。振り返ると、私の人生の中でこの時代は最大の政治的レッスンだった。3年半の間、力というものの意味、力と政治、政府がいかに一体化するかを学び、生きのびるために、人々が力によって作られた状況の中にどのように囚われていくのを理解した。ある日、イギリス人がそこにいた。揺るがぬ、完璧なご主人様だった。翌日、日本人がやってきた。我々が軽蔑し、チビと嘲笑っていた日本人が、腫れぼったい近視の目で我々を震え上がらせた。

    以前のメカニズムは失われ、(イギリス人に対する)従順と尊敬という古くからの習慣も失われた。人々は彼らが荷物をまとめて(日本人から)逃げていくのを目撃した。

    爆弾が落されたとき、我々地元民がパニックに陥るのは当然だった。しかし、彼らは我々よりもっとひどくパニックに陥っているのがわかった。もはや古い関係は消滅したのだ。 (「The Telegraph」より)

    これを読む限り、「日本がシンガポールを植民地支配から解放した」という一面があることは間違いありません。しかし、リー元首相は決して日本の「八紘一宇」の精神に共感したわけでなく、イギリス人より「粗暴で残虐な」日本人がやって来たことにより、それまでご主人様と尊敬してきたイギリス人が慌てふためいて逃げ出す様子を目撃し、その姿に深く失望したところから始まったのでした。

    ■チャペルに飾られた千羽鶴とシンガポール人の日本人観
    チャンギ博物館には屋内と屋外に小さな黙祷所(チャペル)が併設されています。ここに収容されていた捕虜の親族たちが祈りを捧げるために設けられいるのですが、十字架の隣の一角にシンガポールやタイなどの日本人小学校や長野県の小学校などの生徒たちが折った千羽鶴が捧げられており、広島で被爆し12歳で短い生涯を閉じた佐々木禎子さんが折り始めたことが紹介されています。

    私の夫の父方の祖父も占領中、日本軍に連れ去られて行方がわからなくなった(おそらく殺された)華僑の一人でした。古くからマレー半島に住みついた華僑、パラナカンの一族で、占領前はジョホールでプランテーションを経営し裕福な一族でしたが、農園は没収され、大黒柱を失って、当時中学生だった義父は母の作るお菓子を売り歩きながら一家の糧を稼いだそうです。私が夫と結婚したとき、伯母の一人は「日本人と結婚するなんて言語道断」と結婚式への出席を拒みました。日本とシンガポールは建国直後の1967年に戦後補償協定を結び、伯母も数年前に亡くなりましたが、いくら賠償金を受け取っても、愛する人を失ったシンガポール人や、ここを訪れる白人の多くが、「過去のことはすべて水に流し日本人がしたことを許そう」と考えていないことは想像に難くありません、私もまた、シンガポール人である娘をいつかここに連れてきて、私の生まれた国の人々が70数年前に娘の曽祖父や娘の国の人々にしたことを教えたいと思います。

    私がチャンギ博物館を訪れた日の夜、戦後70年の安倍首相談話が発表されました。シンガポールの夜9時のニュースでは、コメントなしで、以下の言葉が紹介されました。

    Future generations should not be predestined to apologise.
    | 後藤百合子 | シンガポール社会 | 12:00 | - | - |
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