ASIAN NOMAD LIFE

日本、香港、中国で生活・仕事をしてきてシンガポール在住8年目。
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書評:ミシェル・ウエルベック『服従』
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    ■もしもフランスがイスラム教の国になったら
    2015年1月のシャルリー・エブド社襲撃事件の日、偶然にも発売されて話題になったのがミシェル・ウエルベックの『服従』でした。

    ストーリーはいたってシンプルです。

    2022年、極右政党を避けようと投票行動をとった市民により、ほとんどノーマークだったムスリム同胞団というイスラム政党が政権の座についてしまいます。これにより社会制度が次々とイスラム化され、ソルボンヌ大学でフランス文学を教えるユイスマンスの研究者である主人公も大学を退職しなければならなくなります(ただし年金が潤沢にもらえるため生活には困らない)。

    仕事がなくなり、パリから逃げる主人公。教え子でもあったユダヤ人の元ガールフレンドはイスラエルへの移住を決めて去り、自堕落な生活を送る主人公のもとに「大学に戻らないか」という誘い。しかしそれにはイスラム教への改宗という条件がありました。

    世界的なイスラム教徒人口増加が続く中、ひょっとしたら将来こんなことが起きるのでは、という可能性はもちろんなくはなく、フランス革命以降、独自の民主主義文化を育んできた国の知識人の狼狽と逡巡を描いたこの小説はフランスのみならず、世界的に大きな反響を呼びました。

    ■ユイスマンスの悪と現代フランス人の俗
    この小説で大きな役割を果たしているのが、ユイスマンスという主人公の研究対象の小説家です。

    ユイスマンスは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍し、澁澤龍彦氏が訳した『さかしま』が有名な退廃主義の作家とされています。『さかしま』の後、『彼方』ではさらに青髭のモデル、ジル・ド・レエや黒ミサなどを題材にとって悪魔主義的な傾向を増していきますが、それに続く『出発』でカトリックに回帰し、劇的な信仰的、文学的転換を遂げたとされています。

    解説を書かれている佐藤優氏はプロテスタント神学のバックグラウンドがある方なのですが、カトリック教徒としてのユイスマンス理解には少し物足りない感じがしました。逆に、松岡正剛氏が下記のような正鵠を得た指摘をされています。
    しかしながら、世の中の「実や美や善」には「悪」や「頽廃」を通過することによってやっと見えてくるものもある。世の価値観のなかにはダンテの地獄篇を通して見えてくるものがあるということだ。

    この論評の中で、松岡氏は、ユイスマンスの中に中世から続く善と悪の逆転というカトリシズムの価値観を指摘されています。ユイスマンスが『出発』で回心を経験するするにあたっては、中世から綿々とヨーロッパ文明の中に伝えられてきた「悪」を通過する必要があった。もしこれがなければ聖なるものや善なるものを発見できなかったのではないか、ということです。

    翻って『服従』の主人公は、食や性など放埓な人生を送っていますが、そこに「悪」や「罪」という概念は登場しません。彼はユイスマンスに導かれるようにトラピスト修道院に赴きますが、そこからもすごすごと引き返してしまう。これはフランスが革命以降、宗教(カトリシズム)を徹底的に日常から排除し、世俗主義を貫いてきた結果、フランス文化からカトリシズムの「聖」や「善」に到達するための手段としての「悪」を喪失してしまったからではないかと思うのです。

    その結果、『服従』の主人公は退廃することさえ許されません。徹底的に俗化された生活にあって、退廃はもはや存在しえないのです。

    ■「聖」のみが存在するイスラム教の世界
    イスラムとは、アッラーに絶対的に「帰依」し「服従」するという意味です。タイトルの原題「soumission」は英語では「submission」であり、自己を神の前に投げ出す、差し出すという意味になります。

    イスラム教徒の価値観とはすべてが神から始まっています。そこにはたった一つの真理、善、聖しか存在しえず、1日5回の祈りに始まり、衣や食など日常生活のすべてが信仰の規範により定められています。そこには「聖」と「聖」に従う自己のみがあるだけで、それ以外の「俗」自体がいっさい想定されていないのです。

    ユイスマンスは俗の中に悪をみいだし、そこを通過して神への信仰に到達しましたが、現代フランス社会においてはすでにあらゆる悪は俗に降格されてしまい、人は自分自身の中に存在する悪を発見し、自覚することさえできないのではないか。そしてそれを媒介にして聖なるものに到達する道が遮断されてしまっている。この小説はそのように読めるのではないかと思うのです。その意味で、フランス、ベルギーといったカトリックの国でイスラム過激派の若者たちによるテロが続いているのは当然の帰結なのかもしれません。

    ■俗と聖のせめぎあいと俗からのアプローチ
    私はある意味で、プロテスタンティズムは徹底的に俗の中に聖を内包させることにより、俗と聖を分離不可分のものに進化させてしまったのではないかと思っています。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に描かれるように、中世には悪と認識されていた金儲けが勤勉の美徳となり、巨万の富を生むハリウッド映画の娯楽大作では、主人公たちが「善」の名のもとに「悪」の手先たちの殺戮を繰り返します。

    しかし、フランスでは聖が打ち捨てられたまま俗を追い続け、その結果として善も悪も識別不可能な文化を創り上げてきてしまった(その反動として極右政治家の台頭があるのではないかとみています)。その現実の前にサルトルは嘔吐しましたが、『服従』の主人公はそれすらできず、最後には巨大な「聖」にからめとられるようにイスラム教への回心という道を選びます。

    いっぽうで、アメリカを中心に情報・啓蒙活動によって、イスラム教徒の若者たちがイスラム国に志願するなど過激化するのを防止するという戦略がじわじわと成果をあげているようです。ここでもまた、資本主義社会という徹底的に俗化された世界で暮らしながら、かつ生まれながらに「聖」の規範に従った生活をするよう運命づけられているイスラム教徒の若者たちを、どういう方向に導くことができるかが問題となっているのだと思います。

    植民地支配と労働力対策によってヨーロッパに定住してきた、そして欧米諸国の思惑により戦火が絶えない地域となってしまった中東から新たに難民として流入してきているイスラム教徒たちの最大の価値観である「聖」と、フランスをはじめとするヨーロッパの「俗」がどう折り合いをつけていくのか、この小説は一つの回答となるのかもしれません。
    | 後藤百合子 | 書評 | 20:21 | - | - |
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