ASIAN NOMAD LIFE

日本、香港、中国で生活・仕事をしてきてシンガポール在住8年目。
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嫌われることを恐れない勇気をもつということ
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    JUGEMテーマ:国際社会

    日経ビジネスオンラインの小田嶋隆さんのコラム、『「教育勅語」を愛する人々』を読みました。

     

    この中で紹介されていた小田嶋さんのツイート、

     

    教育勅語が若い世代を含む多くの日本人を未だに魅了してやまないのは、並列された文言の背景に一貫している「個々の人間の個別の価値よりもひとまとまりの日本人という集団としての公の価値や伝統に根ざした心情のほうがずっと大切だぞ」という思想が、根本的にヤンキーの美学だからだよ。

    より大きな集合の一員であることの陶酔に挺身するのがヤンキーの集団主義道徳で、その彼らを結びつけている文化が友情・努力・勝利の少年ジャンプ的なホモソーシャルである以上、教育勅語はど真ん中の思想ですよ。

    を読み、現在の日本に蔓延する閉塞感について改めて考えさせられました。

     

    ■シンガポールのNational Pledge

    教育勅語は戦前・戦中の学校教育で重要視され、生徒全員が暗唱させられていたそうですが、実はシンガポールにも似たような「Pledege(誓約)」があります。

     

    子どもたちは小学校に上がるとすぐに(娘の通っていた幼稚園では年長クラスから始めました)これを暗記させられ、毎日朝礼で唱和します。 そのためシンガポール建国後に教育を受けた国民であれば、全員これを暗唱できます。(この思想に基づいた「公民」教育も行われますので、ごく少数の例外を除きシンガポール国民は全員文部省管轄のローカル小学校に通うことが義務づけられており、インターナショナルスクールには入学できません)

     

    また、このPledgeは軍隊や建国記念日の行事などでも必ず唱和されるため、首相や議員たちが子どもと並んで唱和している様子なども目にすることがあります。

     

    内容はといえば、いたってシンプル。

    We, the citizens of Singapore, pledge ourselves as one united people, regardless of race, language or religion. To build a democratic society, based on justice and equality, so as to achieve happiness, prosperity and progress for our nation. 私たち、シンガポール市民は、人種、言語、宗教にかかわらず、一つの団結した国民であることを誓います。正義と平等に基づき民主主義社会を構築し、私たちの国家のために幸福、繁栄、進歩を達成します。

    ※これは英語バージョンですが、中国語、マレー語、タミル語バージョンもあります。

     

    簡潔さ、わかりやすさという点では教育勅語とは大きく違いますが、「心を一にして」は「一つの団結した国民」に似ていますし、「進んで公益を廣め」も「私たちの国家のために幸福、繁栄、進歩を達成します」に通じます。「徳」とされているところは「正義と平等に基づき」に近い概念ともとれます。

     

    ぱっと見では、さすが「独裁国家」と揶揄されることもあるシンガポールならではの文言で、国家のために専ら精進して尽くしましょう、という大枠では教育勅語と大差ないように見えるかもしれません。 しかし、いっぽうで、二者の内容をよく吟味すると、主語と国民の定義が正反対であることがわかります。

     

    ■主語が「私」ではない教育勅語

    企業理念や校歌など、日頃から私たちが唱和したり歌ったりするものには通常、「私はこうします」という決意表明ととれる主題があるのが普通です。教育勅語も似た側面はあるものの、主語はあくまでも明治天皇であり、「主」である明治天皇の「お言葉」を「従」である一般の国民が唱和するというところが非常に屈折しています。

     

    例えば、会社の社長の訓示を毎朝、社員が聞くことはあっても、自分が社長に成り代わって話すという形態はいかにも不自然ですし私は聞いたことがありません。理念や会社方針など、たとえ社長が決めたことであっても、あくまでも主語は「私」や「私たち」であって、それを実行する主体として「私たち」が唱和するのです。

     

    私は教育勅語を唱和した経験がないのでわかりませんが、主語が天皇のまま唱和されることにより、ひょっとしたら天皇が自分に憑依しているような、一体感、全能感が感じられるのでしょうか? もしそうだとしたら、教育勅語の主語である「天皇」は、あくまでも特定の「明治天皇」という個人ではなく、自分が一体化できる絶対者であり、一面では宗教的な受容者なのかもしれません。

     

    いずれにせよ、「私」という自覚的な主体が存在しえないことは間違いありません。

     

    ■「みんな違う」が前提のシンガポールと「みんな同じ」が前提の日本

    Pledgeの前段にあるように、シンガポールでは国民が基本的にそれぞれ「異質な人々」であるということを明確に規定しています。

     

    シンガポールでは申請書や申込書などによく「民族」を書く欄がありますが、「華人系」「マレー系」「インド系」「ユーロアジア人(白人とアジア人の混血)」「その他」があり、その度に、この国にいろいろな人種が存在している事実に改めて気づかされます。これは宗教も同じです。

     

    いっぽう教育勅語で言及されるのは、天皇家に何代にもわたって仕えてきた「臣民」であって、憲法をもつ近代「国家」に属する「国民」ではありません。さらに、「臣民」にはその昔は朝敵であった「アイヌ人」や、別に王朝をもっていた「琉球人」、ましてや植民地統治下で日本国民となった方々はまったく想定されていないのです(植民地下でも教育勅語の唱和は行われていたため、現在でも台湾などに教育勅語を唱和できる方はいらっしゃいます)。

     

    同時に、教育勅語の天皇家は神道の長ですから、理屈では仏教徒(明治時代には仏教は神道に反するからといって廃仏毀釈運動が起こりました)や私のようなキリスト教徒が臣民=氏子にはなることはできませんが、当然のようにそれが求められています。 ここでもやはり、「私」という個の出自や信仰などの多様性はまったく無視されて、天皇という存在が要求するように「臣民」全員が同じようにふるまうことを期待される、まさに小田嶋さんのいう「ヤンキー的」理想郷が想定されているようです。

     

    この理想郷をいったん自分のアイデンティティの基礎に据えたら、それに反する思想や教義を信奉する他者は受容できないし、受容しない。

     

    この排他性こそ、教育勅語に象徴される敗戦前の全体主義の根底に脈々と流れていた体質であり、現代日本で教育勅語の思想に共鳴する方々にも引き継がれている伝統なのではないでしょうか。

     

    また皮肉なことに、ある意味、この排他性は、世界に冠たる民主主義国家アメリカの思想的支柱となってきたキリスト教原理主義者の考え方に非常に似かよっているようにも思えます。

     

    ■「みんなちがってみんないい」をあえて言わなければならない社会 

    「みんなちがってみんないい」と書いたのは詩人の金子みすゞですが、人間が一人一人みな個性をもち、考え方も違うのは自明の理であり、あえて深読みすれば「みんなとちがうことは悪である」という日本的共通認識への強烈なアンチテーゼである気がします。

     

    また、自分自身が他の「みんな」と同じでなくなることへの恐怖とともに、人が自分と違うことを許さない人たちが感じているであろう、自分の集団に「異質なものがいる」恐怖、いわば「異分子恐怖」ともいうべきものが日本社会にずっと共有されてきたのではないでしょうか。

     

    サービス残業問題(みんながやっているのだから一人だけいやとは言えない)、ブラック企業問題(おかしいと思っても自分ひとりではなかなか会社を辞められない)、子どものいじめ問題(自分もいじめなかったら逆に自分がいじめられる)、等々すべて同根。 誰からもはっきりと要求されていないのに「空気を読み」、誰もはっきりと言葉に出して言わないのに「空気を読んで」全員が同じ行動をすることを期待する人々が社会的多数を占めていること、そしてその暗黙の了解によって実は自分自身の首を絞め、呼吸できないほど息苦しくなっている人々がやはり大多数であることこそが、現在の日本の閉塞感の元凶ではないかと思うのです。

     

    「空気を読まざるをえない」「空気に従わざるをえない」恐怖感は教育勅語的なるものの排他性に攻撃され、社会的に抹殺される可能性に対する恐怖なのではないのでしょうか。 その中で「みんなちがってみんないい」は私には、自分の信念に反して社会に妥協することを是としなかった金子みすゞの、苦しみ悶えながらの絶叫に聞こえてしまうのです。

     

    ■嫌われることを恐れない勇気をもつ

    「空気を読んで同調してしまう病」は、教育勅語好きな人だけでなく、正反対の立場をとるいわゆる「リベラル」な人々の間にも蔓延しているように思えます。

     

    議論というのはいろいろな立場や考え方の人がいて、さまざまな角度からの意見や考察が述べられて深められていくものだと私は思いますが、いま盛んに取り上げられている森友学園問題を見ていても、些細な事実の暴露合戦や非難の応酬がほとんどで、この問題について、実は何が本当の論点なのかを理解して議論している人たちの数が非常に少ないことに驚かされます。

     

    日本人、外国人にかかわらず、人はみな性格も考え方も違います。表面的にはみな似たような意見に集約されているように見えても、心の底ではいろいろな考え方や意見をもっているはずです。しかし、空気を読み、暗黙の了解で「こういっておけば無難だろう」という防御的思惑によって表面化されず、結果的に非常に貧しい選択肢しか提示されず、それによってまた絶望する。という悪循環がずっと続いているような気がします。 

     

    いろいろな側面において現在の日本はかなり危機的な状況にあると私は認識していますが、自分自身が生まれ育ち、現在も国民である日本という国家に今後も明るい未来が訪れること、ましてや今後、この国家を担っていく若い世代やこれから生まれてくる子どもたちが「この国に生まれてよかった」と思える国家であってほしいと願う心は年々強まっています。

     

    それを実現するためには、困難な課題を国民一人ひとりが多角的なアプローチで解析し、解決していくことこそが必要であり、「空気を読まず」「嫌われる勇気をもって」自分の「個」を原点に返ってもう一度確立することが不可欠であると私は思います。

    | 後藤百合子 | 日本社会 | 03:01 | - | - |
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