ASIAN NOMAD LIFE

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    恐れるな。
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      本日はイースター。キリストが復活されたとされる日だ。

       

      クリスマスは大好きな日本人だけど、イースターにはまったく興味がないようだ。プレゼントの習慣がないからきっとたいした商売にならないのだろう。

       

      しかし世界人口の3割を占めるキリスト教徒にとって、イースターはクリスマスより数倍重要なイベントである。クリスマスを取るかイースターを取るかと言われたら、みんな迷わずイースターを取るはず。それは彼らの信仰にとって決定的な出来事がこの日に起こったからである。

       

      ・いったん死んだ人が生き返る?

      ・ありえないでしょう。

      ・ゾンビじゃあるまいし。

      ・科学で説明できないのは奇跡じゃなくて迷信。

      ・もし実際に複数の人たちが復活したイエスに遭ったのだったらそれって集団ヒステリーじゃないの?

       

      しかし、このキリスト教徒における最重要イベントに対して、無宗教の現代人が抱く感想は概してこんなものではないだろうか? 私自身も洗礼を受ける直前までそう思っていた。

       

      そして、キリスト教徒になってから30年以上たつ今も、完全に、本当に、絶対に、イエスの復活を信じてるか、と問い詰められたら、確信をもってイエスと答えられる自信はない。

        

      子供の頃、ミッションスクールや教会学校に通ったことがある人で「キリスト教にシンパシーは感じるけど洗礼を受けようとは思わない」という人が時々いるけれど、たいてい私のように復活で「躓いて」いる。

       

      というのも、新約聖書にある他の「奇跡」はある程度事実として信じられても(死人を生き返らせたというのは仮死状態だった人がたまたま蘇生したのだとか、パンや魚を大量に増やしたのは少しの食料をみんなで分け合って食べただけ、などの解釈はちょっと苦しいけど成立しないことはない)、イエスの復活だけはどう理屈をこねくり回しても説明できないからだ。

       

      いっぽう、科学の力が宗教を凌駕するようになった20世紀において、キリスト教神学最大のテーマとなった「史的イエス」研究は、長いキリスト教の歴史において人間としての属性が曖昧になり輝かしい天上の神となってしまったイエスを、貧しい大工の息子として再発見することから始まった。

       

      気の遠くなるような文書研究によって(カトリックや多くのプロテスタント教派で正典とされる新約聖書の文書以外にもさまざまな文書を用いながら)、聖書の中で実際に起こったであろうこと、実際にイエスが言ったり為したりしたであろうことと、後世に付け加えられたことをできる限り仕分けしていく作業の中でわかったのは、

       

      イエスは栄光ある神としての人生を過ごしたのではなく、貧しい者、虐げられた者、蔑まれた者たちと共に社会の底辺に生きたただのみすぼらしい男だった。

       

      の一言につきる。もちろんイエスの復活を証明することなんかできない。

       

      さらに、十字架上で死にゆくイエスが最後に叫んだ言葉はルカ福音書によれば「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」となっているが、史的イエス研究が研究しつくした結果によると、これはたぶん後から付け加えられたもので、実際にはマタイ福音書にある「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)が最後の言葉だとされている。イエスは神から見捨てられちゃったとこで死んでるわけだ。

       

      身も蓋もない。

       

      史的イエス研究は、現ローマ教皇であるフランシスコ神父の出身地南米で1980年代に吹き荒れたカトリックの「解放の神学」運動の礎にもなっている。当時は南米の国々自体がイエスが生きていた時代のイスラエルみたいなものであった。

       

      スペインやポルトガルの植民地にされて搾取され、独立してもいつまでたっても庶民は豊かになれず、軍事独裁政権に支配され、恐怖と貧困と犯罪が支配する土地。それが南米の多くの国々が直面していた現実だった。解放の神学はその中で、教会という権威の砦にたて籠らずに貧しい庶民と一緒に不条理な政権と戦う、という神父たちのムーブメントで、フランシスコ神父もまさにその渦中にいたのであるが、当時のバチカンの対応は冷ややかであり、目立った活動をした神父たちは異端として排斥された。

       

      しかし、豪華絢爛な(金ぴかの)バチカン宮殿で緋色のガウンに身を包み、神の代理人役をつつがなく務めるのがナザレの大工の息子、イエスの弟子たちの末裔の正統な役目なのだろうか?

       

      キリスト復活の日、つまり2千年くらい前のだいたい今日くらいの日、イエスの弟子だった2人組が、エルサレムからちょっと離れたエマオという村に向けて歩いていた。それまでずっとイエスにくっついて旅をしてきたけれど、イエスは死んでしまったし、エルサレムにいると自分たちも逮捕されてしまうかもしれない。なので、とりあえずエルサレムを出てエマオに身を隠そうとしていたのだ。

       

      イエスが処刑されるまでは救世主として崇め奉り、世直しだと意気盛んに人々に帰依を迫っていた弟子たちが、教祖(イエスは自分のことをそう呼んではいないけれど)がいなくなった途端にたいへんなビビリになって、危険なエルサレムから逃げようとしていたのである。どの口が信仰をいう? の世界である。

       

      ところが、エマオへ向かう途上で2人の前に見知らぬ人が現れ、共に歩きながら聖書(まだ新約はないので旧約)を語った。そしてエマオに到着後、一緒に食事をしようとしてこの人がパンを裂いたとき、初めて弟子たちはこの人が復活したイエスだということに気づくのである。その瞬間、イエスは消える。

       

      驚いた2人が急いでエルサレムに戻ると、すでに復活したイエスはペテロにも出現していて(バチカンのサン・ピエトロ寺院の名前にもなっていて、初代教皇とされる弟子ペトロは、逮捕前のイエスに「鶏の鳴く前に3度私を知らないというだろう」と予言されて実際にその通りになり、自分の情けなさに大泣きする聖書中最大のチキンである)、ペトロをはじめ、ビビリでチキンであった弟子たちはまるで人間が変わったように、死をも恐れぬイエスの教えの伝道者となって布教活動に邁進し、次々と殉教していくのだ。

       

      ・あのペテロを筆頭に、どうしようもないチキンであった弟子たちがここまで変わった。

      ・彼らは復活のイエスを見たと言っている。

      ・復活か何かはっきりとはわからないが、彼らをあそこまで変えたからには相当ショッキングな事件があったに違いない。

       

      というのが、どうしても復活を信じられない私に信仰の師が教えてくれたことであり、この恩師の言葉が私の受洗のきっかけとなった。

       

      私には今もって復活を合理的に説明することはできないが、私が今キリスト教徒であるということは、この弟子たちが実際に存在したということの証明でもある。というのは、仏教やイスラム教やユダヤ教と違い、キリスト教徒になるには必ずキリスト教徒による洗礼が必要であり、それはこの弟子たちから始まっているからなのだ(さらに遡るとサロメで有名な洗者ヨハネ)。

       

      復活を信じないのは科学的法則に基づく演繹的否定であるが、復活を信じるのは歴史的事実に基づく帰納的肯定なのである。

       

      どちらが本当に正しいのかは誰にもわからない。後世に実は間違いだったと正される科学法則などいくらでもあるし、歴史的事実なんていうもののほとんどはどちらの見方をとるかの主観にすぎない(文書が残っていても「本当のことはネットに書いてある」という人と同じで、それがフェイクである可能性は排除できない)。

       

      さて、このイエスの復活を祝う日、イースター前夜祭のミサでフランシスコ教皇は「恐れるな」と語ったという。伝えるニュースに出典が書いてなかったのでどの聖書の個所の引用かわからないが、恐らくここではないだろうか?

       

      こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 

      ルカによる福音書24章36-39節

        

      この後、イエスは十字架に磔にされたときに手にあいた釘の穴を触らせてみたりするのだが、これってまじで怖い。顔も姿も生前とは全然違って見える人が「ここに穴が開いてるから触れ」と言って手を差し出してきたら怖くないほうが不自然だろう。

       

      現在の状況も似たようなものだ。多くの人が歴史上見たこともない獰猛なコロナ・ウィルスにより、あれだけ毎日、途方もない数の人がばたばたと死んでいくヨーロッパにあって、次は自分の番かも、自分の家族の番かもと怯えている人たちにとって、恐れは日常生活の伴走者だ。

       

      その渦中にあってフランシスコ教皇は、「恐れるな。恐怖に身をゆだねるな」「これは希望のメッセージだ」と語るのである。

       

      厳密に言えば、私たちが恐れているのはコロナ・ウィルスそのものではない。ウィルスにより私たちの日常生活が奪われ、私たちの生活の糧を稼ぐ仕事が奪われ、自分自身や家族や友人たちやその他の多くの人の命が奪われるかもしれない現在と将来のことだ。

       

      つまり、私たちが昨日まで送っていた日常が消え去って、自分がまったく新しい世界にいや応なく投げ込まれてしまうということなのだ。

       

      これってイエスの弟子たちがイエスの死のときに経験したことと同じである。

       

      そしてフランシスコ教皇がずっと過ごした南米の国々で、軍事政権や貧困によって多くの人たちが経験してきたことでもある。

       

      内戦や戦乱によって家や家族を失い、命からがら逃げだして難民キャンプで暮らす中東の人々が経験していることでもあり、

       

      3.11の地震や津波で家も家族も失い、原発事故で帰る故郷さえ失った同胞の日本人が経験してきたことでもある。

       

      つまり、今まで対岸の火事と傍観してきたことと同様のことが、自分の身に起こりつつある、ということなのである。

       

      しかし、このような人々と同じく、そして、これから私たちを襲うことになるかもしれない境遇と同じく、神からも人々からも見捨てられどん底の最期を経験したイエスが、復活した。それを知るからこそ、フランシスコ教皇はあえて「恐れるな」というのではないだろうか? 

       

      どんな苦境にあろうと、どんなに見捨てられたと感じても、イエスは必ず復活する。そして私たちと共に歩いてくれる。だから恐怖におののいてはいけないのだと。

       

      恐怖のどん底にあって、私たちを救うのは希望なのだと。希望こそが復活なのだと。

       

      いつ収束するかまったくわからないコロナ禍の渦中にあって、恐れるな、私の言葉が希望である、と語る教皇の姿を見て、やはりキリスト教徒であって良かったと感じた私の三十数回目のイースターの日であった。

      | Yuriko Goto | 危機管理 | 23:59 | - | - |
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