文春オンラインで眞子さんの結婚についてジャーナリストの保阪正康さんが書かれた記事を読んだ。
頭に血が上った。
記事の主旨はこれまでマスコミが何度も繰り返し騒ぎ、何の罪もない若いカップルを批判してきたことと同じである。
小室さん親子は金にルーズである。
このような態度は社会的に許されない。
眞子さんは将来の天皇の姉であり、その配偶者の行状は皇室のイメージに悪影響を与える。
だからこの二人の結婚は許さるべきではない。
しかし「開かれた皇室」とはいえ、皇族には世間一般と同じ自由な恋愛が許されるわけではない。ご降嫁されても天皇のご親戚であり、その配偶者の職業や暮らしのことで皇室のイメージを悪くする事態があってはなるまい。
保阪氏は昭和史研究の大家である。
戦前、戦中の昭和天皇がいかに軍部に、ひいては国民に利用され、追いつめられていったか知悉している方である。昭和天皇は最期まで戦争責任の問題を問われ続け、苦しみながら贖罪の植樹を続けた。
戦後、昭和天皇は人間宣言を行い、天皇は「日本国民の総意に基づき」「日本国の象徴」となった。(私は天皇を日本の象徴とは思っていないので、きっと日本国民ではないのだろう)
しかし、皇室典範を読めばわかるが、戦前と同じく、天皇及び皇族には自分の意志で何かを決定したり、実行したりする力は与えられていない。すべてにおいて皇族2人を含む総理大臣や国会議長や最高裁判所長などで構成される皇室会議の承認が必要だ。
さらに言えば、皇族には日本国民なら全員がもっている住民票がない。選挙権も被選挙権もない。パスポートもない(なので眞子さんは小室さんと結婚して一般人になってもパスポート発行まで出国を待たなければならない)。
皇族としての公務を行うことが義務づけられているので職業選択の自由もない。住みたいところに引っ越すこともできない(居住・移転の自由)。皇族の務めである宗教行事を行わなくてはいけないので信教の自由もない。
つまり、皇族制度(=天皇制)は、明らかに日本国憲法の要であるさまざまな「国民の権利」を侵害しているのである。天皇を頂点とする皇族は、日本国の象徴であるのに、日本国民に認められている権利は与えられない。
日本国憲法第二十四条にはこうある。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
保阪先生ともあろうお方が、この条項を知らないわけがあるまいし、「皇族には世間一般と同じ自由な恋愛が許されるわけではない」などと宣うからには、皇族に生まれたからには、基本的人権を否定されてもしかるべきだと考えられているのだとしか判断のしようがない。
これが、遊びたい盛りの高校生の頃から文句ひとつ言わず粛々と公務をこなしてきた、「皇族の鑑」とも呼ぶべき眞子さんに浴びせる言葉だろうか?
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
あえて形容するなら、これは日本国憲法第十八条に述べられている「奴隷的拘束」であろう。
眞子さんの結婚については秋篠宮が「日本国憲法で保証されている婚姻の自由」という言葉を使って彼女の気持ちを尊重する、と一度だけおっしゃっていたが、それ以外に眞子さんの結婚に関して天皇(皇族)制度と憲法に関連する議論がまったくなされないことに驚きを禁じえない。そして保阪氏のこの発言である。
明日、眞子さんと小室さんが結婚される。
万難を排してこの日を無事に迎える若いお二人の愛と勇気を心から讃え、祝福の言葉を贈りたい。
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眞子さんと小室クンの結婚が決まった。
椰子の実が1年以上かかって漂着するくらい日本から遠く離れた南洋の小島でこのニュースを聞いた私は小躍りした。
「振り切り勝ちだね、眞子ちゃんおめでとう! 会ったことないけど、おばさんは周囲から結婚を猛反対されてた姪っ子がついに親を説得できたみたいで心から嬉しいよ」
■皇室を離れるために全力で王子にしがみついた眞子さん
振り返ればこの2年近く、コロナのおかげで帰国もままならず、「私がこれまで納めた税金全額返せ!」とはらわたが煮えくり返ったアベノマスク事件以降は意識して日本の状況に疎くなるようにしていた。
結果、首相になった菅元官房長官の辛気臭い顔を見る機会もほぼなく、清々しい気分で暮らしていた私ではあるが、唯一の例外は、眞子さんと小室クン関連のニュース。
おばさんの余計な心配とはいえ、ひょっとしてひょっとしたらひょっとしたはずみにロミオとジュリエットのような悲恋劇に終わってしまったらどうしようと、どきどきはらはらしながら見守っていたのだ。
小室クンがニューヨークで学生生活に入っても、これまでと変わらず淡々と公務をこなす眞子さん。周囲の大騒ぎをよそに当人たちは黙して多くを語らず、代わりに父の秋篠宮や母の紀子さんや妹の佳子さんまでが折りにふれて(結婚を)否定したり肯定したり。仲睦まじくみえた家族の関係が大きく揺れ動いている様子が垣間見えた。
最近は、小室母の元婚約者からもこれといって新しい話は出てこなかったけれど、小室さん不在中に何度かマスコミの前に姿を現して話題を提供してくれたのは小室母の方。
新しい発見は、
「お母さん、けっこうセンスいいわ」
だった。
お母さんといっても私より若干年下。盛りを過ぎたとはいえまだまだ女現役である。年相応のお肌やスタイルは脇に置いておくとして、あのセンスでああいうシンプルな服をすっと着こなしていたら、若かりし頃はさぞかし目立ったんじゃないだろうか? 夫亡き後も恋人が複数できたり、小室クンが今どき珍しい強度マザコンなのもよくわかる気がする。
眞子さんはマザコン小室クンをこの母からも奪い取ったのだ。
ちょっと話がそれてしまったが、何を言いたいかというと、経緯を見守っていた私にわかったのは、ついに結婚にこぎつけた今回の大立ち回りの主役は、小室クンでもなく二人の愛でもなく、皇室という「イエ」を離れるために体を張って戦った眞子さんその人だったのだろう、ということだ。
だから「眞子さん、小室クン、おめでとう」ではなく、シンプルに「眞子さん、おめでとう」。
まだまだ若い小室クンには眞子さんとではなく違う未来もあったとは思うけれど、お母さんから全力で育てられた後は、眞子さんにも全力でしがみつかれ、捕捉されてしまったのだ。そして結婚内定。
もう逃げられない。あきらめなさい。
■「こんな人たちに私の一生を捧げるの?」という心の声が聞こえる。
そもそも婚約内定後に小室家の借金問題が暴露されてハチの巣をつついたような大騒ぎになった頃も、世間は小室さんの「玉の輿」婚であると素直に信じていた。私も同じだ。
が、時間の経過とともに秋篠宮や紀子妃、そして眞子さん本人の談話がぽつぽつと出てくるにあたり、実はどうも逆じゃないかと思えるようになってきた。
小室クンが眞子さんを好きなのはわかる。
でも、これだけ日本でぼこぼこにされた後、太平洋の対岸のさらに向こうのニューヨークで、(プレッシャーを背負った苦学生とはいえ)自由な生活を再び手にし、弁護士試験さえパスすれば、たとえ眞子さんと結婚できずとも、あのルックスであの人当りでしかも有名人。決して暗い将来は待っていないだろう、と思われる。
いっぽうの眞子さんはどうだろうか?
一世代上の女性たちを見れば、このまま皇室に留まった場合、自分自身にこれからどういう未来が待っているかはだいたい想像がつく。
民間に嫁いで穏やかに暮らしている元皇族といえばサーヤ、元紀宮がいらっしゃるが、36歳と晩婚で子宝には恵まれなかった。20代半ばにはマスコミの結婚報道が過熱しあまりの騒ぎに本人がやめてほしいと異例の要請をしたが、確かにあの状況では決まるものも決まらないだろうと私も思ったものだ。
案の定、それからご結婚までの道のりは長かった。
伯父にあたる現天皇陛下の浩宮時代のご結婚も困難も極めた。
20代には次から次へとお妃候補の噂が浮上すれど断られ続け、キャリア一筋だった雅子妃を拝み倒して結婚したのが33歳。しかし雅子妃は現在の眞子さん騒動とは比較にならないほどの激烈なバッシングを受けてノックダウン。それでも決死の覚悟で体外受精をし愛子さんが産まれるも、今度は男を産まないと非難の嵐。
20年以上にわたって地獄のような日々を過ごされてきたのには心よりご同情申し上げたい。
現皇室中で、世間スタンダードの「幸せな結婚」を手にしたのは眞子さんのご両親くらいだろう。それでも結婚前には紀子さんを貶めるようなさまざまな噂が巷に流れたものだし、雅子妃バッシングが一息ついた今は猛烈な紀子妃バッシングが起きている。
そんな中、眞子さんは皇室人手不足の影響からか、若干16歳から単独公務を始めたという。
平成天皇の初孫だけあって幼い頃から注目を集めてきた眞子さんは年齢以上に落ち着いて大人びている。それもそのはず、彼女は叔母の紀宮や伯母の雅子妃そして母の紀子妃がマスコミや国民からどういう仕打ちを受けてきたか、一番身近でじっくり見てきたのである。
そして自分の番。
小室家スキャンダルにマスコミや国民は大喜び。結婚なんてとんでもない、と大合唱はもちろんのこと、1億5千万円の税金を使うのだから反対する権利がある、とまるで自分がそのお金を出すような口ぶり。この方々は、これまで皇室の中に閉じ込められて眞子さんがどれほどの不自由を強いられてきたか、そしてどれだけの公務を真摯にこなしてきたか、まったくわかっていないどころか、わかろうとさえしないで、天皇家の主人気どりなのである。
天皇家のメンバーは公務員でも奴隷でもないからね。
国民の象徴だから。
そこんとこ間違えないように。
ましてや昨今は皇室人手不足がますます逼迫し、女性宮家の創設案まで現実味を帯びてきた。バッシングに負けこの結婚をあきらめて、安倍元首相じゃないけれど、自分の一生をこんな人たちのために捧げるの? と眞子さんが絶望したくなってもおかしくないだろう。
眞子さんがこの状況から脱出するためには、極めて運よく捕まえた、類まれなる鈍感力を誇る小室クンと結婚する以外に道はないのだ。
■人を幸せにしないシステム、皇室
今、得意満面で眞子さんと小室クンを叩いている人たちに聞いてみたいことがある。
皇族って苗字ないの知ってる?
皇族って住民票がないって知ってる?
皇族には選挙権も被選挙権もないの知ってる?
つまり、皇室に生まれてしまった人には(嫁いでしまった人にも)、日本国民が当然のこととして享受している基本的人権も、そして民主主義国家の最重要権利である選挙権もないのである。
(その割に相続税は払わされているらしい)
これって差別じゃないですか?
あの極左文学者の中野重治も戦後書いた小説の中で主人公にこう語らせている。
だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒という感じが常に先立っている。
昭和天皇は最期まで戦争中、「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んでいった夥しい数の人のことを忘れなかった。その人たちを記憶にとどめるために樹を植え続けた。
平成天皇は敗戦後に廃止されかねなかった天皇家という「イエ」を護るために皇室の存在意義を熟考し、美智子妃と二人三脚で被災地をくまなく訪ね、世界の戦場で亡くなった兵士たちの鎮魂を祈っては、戦後の皇室を再構築した。
そして令和。
今上天皇時代の最大の特徴は、皇嗣家である秋篠宮家と一体であるということだろう。皇太子不在かつ病弱な皇后という現状では、重要な公務を分担できるのは弟の秋篠宮と紀子妃しかいない。そして次世代の皇嗣は秋篠宮長男である。
兄弟という関係性を超えて、両家はこれまで以上に緊密に協力し合いながら父の明仁上皇から受け継いだ「イエ」を守っていく以外ないのである。
そんな状況下で、もしも今回のチャンスを逃したら、眞子さんは永遠に皇室の中に閉じこめられ、皇室という「イエ」の一員として、それを守るための一兵卒として、一生を捧げなければならない可能性がとても高かったのだ。しかも皇室に留まるかぎり、トルネードのようにいつ発生するか予測不能の世間からのバッシングからも永遠に逃れられない。
だから、眞子さんが世間並みの幸福という切符を手に入れるたぶん最後のチャンスが、小室クンだったんだと思う。
■女系天皇も女系宮家もなくていい。
こういう諸々がしっかり頭の中に入っていた眞子さんはあらゆる困難に立ち向かい、初志貫徹してぎりぎりセーフでアメリカ行きを決め、皇室離脱のチャンスをものにした。
次は佳子さんと愛子さんの番だ。
二人がもし今回の眞子さんのようなバッシングに遭ったらと考えると、今からおばさんはいてもたってもいられない気持ちになる。どんな若い女性にもそう願うように、自分の生まれや運命に悩みながら、それでも前進していこうとしている彼女らの前途を、静かに見守り幸福を願っていたい。眞子さんのような酷いバッシングを受けず、愛する人と出会い穏やかな生活を送れますようにと祈ってやまない。
この気持ちは娘をもつ親である今上天皇や秋篠宮も同じだろう。
決して間違えてはいけないのは、彼女たちは自ら進んで注目を浴びる道を選んだ有名人とは違い、たまたま皇室に生まれてしまっただけの女性たちなのだ。
皇嗣に生まれてついてしまった悠仁さんもお気の毒だとは思う。けれどこれはすでに法律で決まっていて、法律が変わらない限り彼に皇室を出る権利は与えられない。逆に佳子さんや愛子さんには、結婚をせずに皇室にとどまる自由も、結婚をして住民票も苗字も選挙権ももつ普通の女性になる自由が、今のところはまだ保証されているのだ。
だから私は、女性天皇も女系宮家もなくていいと思っている。
人を幸福にしない天皇家というシステムをこれからどうしていったらよいか、当事者である現天皇陛下と秋篠宮氏はよくよく考えられていることだろう。しかし彼らに決定権はない。
個人的には、現在、大方の日本人が自分の「イエ」がいつか消滅してしまうのはやむをえないと考えているように、天皇陛下も秋篠宮も考えていらっしゃるのではないかと推察している。
何といっても天皇家は私たち日本国民の象徴、代表であるのだから。
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■絵に描いたような悪徳会社:ディディ
アリババに次ぐ史上2番目の規模の大型IPOと呼ばれて今年6月30日にニューヨーク株式市場に上場した中国配車サービスのディディ(滴滴出行)。
一時は18.01ドルの最高値をつけたものの、翌週7月4日には個人データの収集と利用に重要な違反があったと中国当局が発表して同社のアプリのアプリストアからの削除を命じたため株価が大暴落。現在は8ドル前後と低迷を続けている。
(禁止されたのは新規ユーザーのアプリダウンロードのみで既存顧客は引き続きサービス利用可能)
最初にこのニュースを聞いたときは、アリババやテンセントと同じく共産党内部の権力闘争で習近平が生き残るためのみせしめのためかと思ったのだが、先週のニューヨークタイムズの記事を読む限りではどうも違うらしい。
というか、このディディという会社、かなりとんでもない会社のようなのだ。
どのくらいとんでもないかというと、
・ライバルを潰すためなら社員を使って平気でウソの予約を入れまくって営業妨害し、
・最大のライバルだったウーバーのドライバーには「ウーバーが中国から撤退することになったからうちで働くように」とウソのメッセージで引き抜きにかかり、
・ウーバーが撤退を余儀なくされると丸抱えでそのビジネスを買い取ってドライバーや技術を手に入れ、
・ドライバーによる暴行殺人事件が連続して起きたにもかかわらず再発防止に真剣に取り組まず、
・被害を受けそうになった女性がカスタマーサービスに電話をかけても真面目に対応する気配を見せず、
・安全を担保する法令も無視して守らず、ドライバーが警察に捕まるとドライバー個人に罪をなすりつける、
と、この記事の情報が正しいとすれば、まさに絵に描いたような悪徳企業なのである。
それでもディディがここまで成長してこれたのは、配車サービス分野で中国政府が外資に代わる中国企業を育てたいと考え、たいていのことには目をつぶってきたからとニューヨークタイムズ紙は書いている。
ただしその我慢もここにきて限界になった、ということらしい。
■インドの有名スタートアップ、オヨもご同類
ここまで読んできて、はて、どこかで聞いた話だよなー、と考えていたら思い出した。
そう、こちらもインドで急成長してきたホテルチェーンのオヨ(Oyo)。
やはりニューヨークタイムズの昨年のこの記事によると、
2013年に若干19歳の学生だったアガルワル氏が設立したオヨは短期間で急成長。またたく間に世界80カ国に120万室以上の客室を擁し、2万人以上の従業員を抱える一大ホテルチェーンにのしあがった。
しかし、その実態はというと、宿泊業許可を得ていないホテルや民泊レベルの客室を提供して、摘発されると警察や役人に賄賂をつかませ、ホテルホーナーにはなんだかんだ理由をつけて支払いをできる限り遅らせ、やっと支払ったかと思うといろいろ理由をつけて差し引いた金額しか渡さず、元従業員からは「組織風土が有害」とまで言われるレベル。
この記事が発表された2020年1月の時点ですでに、セコイア・キャピタルとライトスピード・ベンチャー・パートナーズという大口出資者でアメリカ有数のベンチャーキャピタルが出資を縮小しているが、その後ホテル業界を直撃したコロナ禍でさらにダメージ拡大。
さらに別の記事によると、今年7月には借り入れにより債務の返済を行うという自転車操業に陥っている模様。
(記事中ではマイクロソフト社が500万ドルを出資と大きく扱っているが、5億5千万円なんてマイクロソフトからしたら塵のような金額でとても本気で出資しているとは思えず、単なるおつきあいだろうと推察する)。
現在はといえば、お膝元のインドではホテルオーナー離れが急速に進み、日本や中南米事業からも実質的に撤退した他、従業員も数千人単位で解雇しているそうだ。
というわけで、オヨもディディにも負けず劣らずこれまでの悪行が身に報い、の結末を迎えそうな予感いっぱいの会社である。
■孫さん、その投資先は本当に大丈夫ですか?
さて、上記2つの悪徳会社に共通するのは何だろうか?
答えは、孫正義率いるビジョン・ファンドはじめソフトバンクグループが巨額の投資をしているということ。ざっと調べたところでは、ディディには1兆円以上、オヨにも2千億円近くを出資しているとされている(合弁事業も入れるとオヨにはもっとつぎこんでいそうだが)。
やはりソフトバンクが1兆円以上の投資(支援も入れると2兆円以上)をした米ウィーワーク社が犯罪的経営者(と呼んでもいいと思えるほどの悪辣さ)アダム・ニューマン氏の経営により、企業価値470億ドルから2019年にはわずか80億円ドル(8,800憶円)の評価となり、それ以降も赤字を垂れ流し続けている現状を見ると、このままいけばディディやオヨも投資額を回収できるのは難しい状況であり、最悪のケースでは倒産もありうるのではないかと邪推してしまう。
この現実を見る限りでは、孫さんやソフトバンクが投資先の選定にあたり、企業のコンプライアンスや経営者の資質も含めた詳細な調査を行っているとはとても思えない。
TikTokを擁するバイトダンスがアメリカの標的になったり、アリババグループのジャック・マーが行方不明になっていたりと、ソフトバンクグループが大規模出資している会社や経営者に暗い影が落ちている現在、特に中国では、ただ成長しているから、利益が出そうだからという理由だけでやみくもに投資するのは非常に危険だろう。(孫さん自身も先月時点で中国への投資は当分見合わせと発言している)
彼が20代の頃から尊敬するビジョナリー経営者として孫さんの動向を見続けてきただけに、今のソフトバンク投資のビジョンなきビジョンを見ていると慙愧に耐えない。
孫さん、その投資先は本当に大丈夫ですか?
その投資で世界は良い方向に変わりますか?
もう一度原点に戻って、孫さんの描くビジョンを見せてほしい。
]]>「そうだ」というのは、 10月後半に公の場に姿を現した後消息がまったく聞かれなかったにもかかわらず、 2ヶ月以上が経過した昨日になって一斉に世界のメディアが報道したからだ。
いま振り返れば、コロナ禍のまっ最中に超大型案件と期待されていたアリババグループ傘下のフィンテック企業アントの上場が、昨年11月直前にキャンセルされた時も様子がおかしかった。すでに新株入手の払込まで済ませたという人々に払い戻しまでしての上場中止という前例のない事態で、しかも総責任者であるマー氏の事情説明さえなかった。
それが昨日になってやっとウォールストリートジャーナル紙がこんな記事を発表。
おそらく金融関係者は早くから事情を知った上で、共産党政府を恐れて記事にすることができなかったのだろう。とすれば、マー氏の失踪にしても業界内では周知の事実で、昨日になって何らかの中国政府の許可をとりつけて記事にしたと考えるのが自然だ。
おりしも2021年の米株式市場開始直前。昨日のNY株式市場のアリババグループ株価は、昨年末と比較して2.1%安の227.85ドルとなった。
世界的に影響力を持つ実業家の失踪という事実にとどまらず、それをマスコミが報道するタイミングまでコントロールされる国、それが中国だ。
この顛末を見ていて既視感を感じたのは、2018年9月に中国 eコマース2位の JD 創業者劉強東氏がアメリカ出張中にわいせつ行為を働いたとして逮捕された事件。
劉氏は2015年に米留学中に知り合った19歳年下の女性(中国では「ミルクティーの妹」という愛称で親しまれ、可憐なルックスながらJDのファッション部門を率いる剛腕経営者でもある)と結婚したばかりだった。
案の定、わずか16時間後に釈放。その後も有罪になったという話は聞いていない。
しかし、会社の業績と同じく右肩上りで上昇していた株価は以前の最高値の半分以下に落ち込んだ。それから2年が経過した現在では当時の価格の4倍以上をつけており、この暴落と暴騰により莫大な利益を手中に収めた投資家が存在しているのは明らかだ。
同年7月には一代にして海南航空を中心としたコングロマリットを築き上げ、世界で170番目に大きい企業集団にまで成長させた HNA グループ総裁王健氏が出張中のフランスで事故死。 仕事で滞在していたはずなのに、なぜかプロヴァンス地方の鄙びた村に向かい、写真を撮ろうとして登った15 mの高さの岩から落ちて死亡と言う不可解な事故だった。
この事件後、海南島は中国観光の目玉スポットとして開発が加速し、混迷が続く香港の代替地として金融・貿易機能を担う経済特区に指定されるなど、さらなる経済成長が見込まれている。
昨年11月には、過去に中国最大の私企業に挙げられたこともある河北民企大午農牧グループの創業者の孫大午氏が家族や幹部20人以上とともに逮捕され、会社は政府が没収。
孫氏は長く人権派の弁護士らを支援しており、地元の人々の福利厚生のために会社の利益を還元してきた篤志家だった。これらの活動が共産党の逆鱗に触れたため、以前にも逮捕歴があり競合する国営農場との小競り合いが続いていたという。
この他にも習近平のコロナ対策を批判した不動産王の任志強が逮捕され禁固18年の判決を受けたり、ITを中核に南京福中グル―プを築き上げた楊宗義氏も逮捕されたりと、いちいち挙げていけばきりがないほど、大成功を収めた起業家たちが一夜のうちに全てを失う事態が中国では続いている。
一般的に彼らのような実業家たちは、政治的に党の方針に反したためその地位や富を剥奪されたと考えられているが、その一方で彼らが失脚した後に巨万の富を得る機会が一部の人々に与えられてきたという事実も見逃せない。
「 中国で大成功した実業家は共産党幹部の鴨にすぎない。 太るだけ太らせた後にフォアグラを食べるのは彼らだ」という主旨の文章を読んだことがある。
中国株式や中国市場に投資している方々は特に、センセーショナルな政治劇の裏でこれらの起業家たちが築き上げてきた富の行方も注視していく必要があるだろう。
]]>amzonオーディブルを始めた。
記念すべき第一冊目はSeth Gordin著”The Practice"。
英語の本にしたのには理由がある。
日本語の本と違い、英語の本を読むには時間と忍耐力が必要だ。
わからない単語は辞書で調べなければならない。Kindle本だと単語が内臓辞書に直結しているので多少は速いけれど、それでも本文から辞書に跳ぶことで思考の流れがいったん中断される。元の文脈に戻るまでに時間がかかる。そのためのエネルギーも必要だ。
まだ語彙力が少なくて日本語の本が自在に読めていなかった、でも大人が読む本を読みたくてしかたなかった自分の小学校高学年や中学生の頃はどうだったかというと、もちろん辞書は引いたけれど、知らない語句が出てきてもけっこう飛ばし読みをしていた。テレビやラジオでも同じ。
つまりオーディブルは(英語ネイティブでない人たちにとって)そういうものだと考えればいいのではないか?
母語の日本語と違い、ほとんどの人にとって外国語の本は100%意味が正確に把握できるわけではない。また、テレビやラジオと同じで100%それに集中できるわけではないので聞き逃すところも出てくる。
でも、何かをしながら(私の場合は1日1万歩を目標にしているウォーキング)聴くことができるし、テレビやラジオと違い気になったり理解できなかったと感じた個所を何回も聴き直せる。
何より良いのは、自分で読むのと違って途中で投げ出すことなく最後まで読み上げてくれるところだ。つまり、苦行のような忍耐をしなくても、100%完璧にわからなくても、とにかく英語の本を読み終えることができるのがオーディブルの最大の利点といっていいと思う。
Podcastもそのあたりの感覚は同じ。そもそもこの本を購入した動機もこのPodcastの番組だった。
Design Matters with Debbie Millman: Seth Godin on Apple Podcasts
このインタビューによれば、ゴーディンさんのブログのポストはすでに7,500記事にのぼるそうだ。毎日休まず書いたとしても20年以上続けているわけで、驚異的な持続力というしかない。
クリエイティブワークに限らず何事にも通じる黄金律ではあるが、効果が出るまであきらめずに続けること(ブログでもPodcastでも初期の読者や視聴者はせいぜい5人とゴーディンさんは断言する)は成功の鉄則だ。
歴史上どんな高名な野球選手でも打率は3割代。つまり6割以上は失敗している。逆に言えば3割のヒットを打つためにはヒットしない6割の打席に立たなければいけない。成功者とそうでない人の違いは(アメリカの大新聞で作品を発表している漫画家に喩えて)この6割にあるのだ。
この本の副題の「Shipping Creative Work(クリエイティブな仕事を発表すること)」にあるように、本書のテーマはブロガーや、ユーチューバーや、デザイナー、漫画家等々、クリエイティブな仕事をしたいと考えている無名な人たちが、それで生計をたてるためには何をしたら良いかというアイディアとヒントを提供してくれる。
ゴーディンさんはマーケティング本の著作家及びセミナー講師として世界的な名声を博しているが(すでに著作が20冊もありその多くが邦訳されている)、世界的ベストセラー作家の彼が必要だと言う読者はたったの1万人。
これだけの固定ファン(読者やセミナー受講者)がいれば生計がたてられる。万人受けする必要はない。だから、自分の仕事にとって重要だと考えることを批判を恐れずに追及しろ、というのがこの本の最初から最後まで一貫する彼の主張だ。
私のような弱小ブロガーにとっては誠に有難い啓示である。
さらに彼が繰り返し説くのは、決してクオリティを落とすな、ということ。
クオリティを落とさず自分の作品を作っていくには、良いクライアントをみつけること。良いクライアントは要求が厳しいので自分の仕事のレベルを引き上げてくれ、さらにその仕事に対する報酬も高い。クラウドワークで時給3ドルの仕事を発注するクライアントの仕事をしていたら、いつまでたっても自分の仕事のレベルは時給3ドルにとどまるしかないだろう。
どちらを選ぶかはその人の決断による。
その他にも多くの示唆や気づきを与えてくれる本だった。前出のPodcastのホスト、Debbieさんはamazonの2つのアカウントを使って2冊分を購入し、メモのハイライトを全体を23%したという。
彼女が特に感銘を受けたというある章「45 ways we sacrifice our work to our fear(恐れを克服するための45か条)」には、「他人がそれを発展させることができるような作品は発表するな」「インスピレーションを得たときにだけ仕事をしろ」「完璧主義と質を混同しろ」「最先端の知識からは一歩遅れろ」など、少し違った角度からのアドバイスも大量に含まれていて考えさせられる。
新年のこの時期は1年の計画をたてるとき。私の今年の目標にはオーディブルでもっとたくさんの英語の本を読むことも入れた。約5時間半で聴き終えられるこの本は、新年の目標をたてる際の良い参考書になるだろう。
]]>2020年はコロナに開け コロナに暮れた1年だった。
このブログを書いている2020年末時点でコロナ収束の唯一の希望はワクチンだ 。イギリスを皮切りに欧米では今月から高齢者や医療関係者を筆頭にワクチン接種が始まり、 私が住んでいるシンガポールでも明後日30日からワクチン接種が始まることになった。
現在これらの国で使われているワクチンの大半はファイザー/バイオンテック社製の伝令 RNA 技術を使用したものである。この技術を使ったワクチンが人間に使われるのは世界で初めてだが、 元々はガンやHIVなどの感染症治療のために長いこと研究開発が進められてきたもので効果や安全性も高いことが分かっている。当初WHOは2021年末までワクチン開発は無理だろうと言明していたが、実際にはこの新技術のおかげで驚くほどのスピードでワクチン開発が進んだ。
日本の家庭ではいまだ遺伝子組み換え大豆使用の食品を食べて良いかどうかの議論が続いているが、このワクチンに至っては人間の体内に入ってコロナのタンパク質を作り免疫まで作ってしまうと言う 近未来SF のような薬だ。 通常の状態なら試験に試験を重ねて慎重に人体に適用されるところだろうが、 コロナの猛威で世界中が機能不全に陥っている今、背に腹はかえられずどの国も大した検査もせずに緊急承認を行った。
遺伝子情報をいじって細胞レベルで新しく開発された商品はコロナワクチンにとどまらない。 ここにきて世界の食品業界で熱い視線を浴びているのが2021年からシンガポールで始まる培養肉の商業販売である。
培養肉は英語でcultured meatと呼ばれる。 家畜を殺さずに家畜の肉の組織から人工的に肉を作り出すもので、人間に使われてきた再生医療(山中教授の IPS 細胞応用技術も含む) 技術がベースとなっているそうだ。 2013年にはマサチューセッツ大学の教授が実際に培養肉からハンバーガーのパテを作ってこの技術の実現可能性を実証した。
2010年代には培養肉や培養シーフードの製造販売を目指して多くの会社が起業し、2019年にはこのうち5社がthe Alliance for Meat, Poultry & Seafood Innovation という組織を作って各国政府にロビングを開始。そのうちの一社であるEat Just社がめでたくシンガポール政府の承認を取りつけ、来年から培養鶏肉の商業販売を開始すると今月2日に発表した。
この記事によると、現在植物由来の肉等を含む代用肉市場はマーケット全体の1%しかないが2029年には10%に拡大すると予測されており、コスト的にも数年先には従来の精肉よりも低く生産することが可能になると期待される。また、20年以内には実際の家畜の肉を食べる行為が残虐だとして忌避されるような未来を予言する学者もいる。
2019年に上場し植物由来の代替肉マーケットでトップを走る米ビヨンドミート社には ビル・ゲイツ氏が投資しており、競合のインポッシブルフーズ社にはシンガポール政府投資会社であるテマセックが投資。世界に先駆けて培養肉販売を解禁した裏には、この分野で主導権を握りたいシンガポール政府の思惑が透けて見える。
動物愛護の観点からのみならず、精肉から代用肉への転換には地球温暖化防止効果も期待されている。毎年150億本を超える樹木が伐採され地球温暖化を加速させているが、熱帯雨林伐採後の用地の大半は牛肉生産のための牧草地に転換されている。 また 1億3千100万ヘクタールを閉める大豆農地はその70%が家畜の飼料になっている。これらを減らし熱帯雨林に戻すことができれば地球環境を大きく改善することができるはずだ。
1978年世界で初めて体外受精により誕生したルイーズ・ブラウンさんもすでに40代。高齢出産が当たり前の現代では体外受精で生まれた人たちも少数派ではなくなってきた。
バイオテクノロジーを使って生まれ、バイオテクノロジーで生産された食品を食べて育ち、バイオテクノロジーを応用した医療でいつまでも若々しく生きるようになる。コロナ克服の 年になるはずの2021年はまた、そんな時代の幕開けの年になるのかもしれない。
]]>一族郎党すべからくキリスト教徒であるシンガポールの我が家では、クリスマスイブを義妹の家に集まって祝うのがここ数年来恒例行事となっている。老齢の義父母や大勢の甥や姪に囲まれて持ち寄りの料理を食べたりおしゃべりを楽しんだり。昨年からロンドンで音楽を勉強している甥っ子も去年は帰省して、だいぶ認知症が進んだ義父が吹くハーモニカに合わせてピアノを弾きハープを奏でた。
しかし今年は様変わり。コロナ規制で自宅に親戚や友人を呼ぶのは5人までと人数制限が設けられたため家族全員で集まるのは不可能。ロンドンの甥っ子も帰省はならず、SNSでメッセージを交わす他は各家庭でばらばらに過ごした。国内コロナ感染鎮静化に伴い28日からいろいろな規制が緩んで旧正月にはもう少し大人数で集まることができる予定だけれど、新たに発見された新コロナ株の感染拡大動向によってはこの決定も覆されない。実際、今月頭にはシンガポール⇔香港間で検疫期間を設けない旅行自由化が実施されそうになったが、香港での感染増加を受けてぎりぎりでキャンセルされた。
そんな状況下で本年我が家の唯一のクリスマス・イベントは、駐在員としてシンガポールに滞在中のキリスト教徒の友人を招き、私の母教会(洗礼を受けて初めてメンバーになった教会のことをこう呼ぶ)のクリスマスイブ・キャンドル・サービスのネット中継を観てクリスマスを祝うこと。高齢者の信徒が多い東京の母教会ではもう半年以上日曜日の礼拝は少人数の招待制にしていて、礼拝のネット中継も始めた。そして例年なら信徒でない人々も集うキャンドルサービスも、今年はリアルはシャットアウトして完全ネット中継になったのである。
教会員の皆さんがこの日のために練習してきたトーンチャイムやハープ、トランペットにパイプオルガンなどの曲にのせてクリスマス・メッセージが日本から遠く離れたここトロピカル・アイランドまで届けられ、礼拝後のディナーは日本の教会の友人たちとWhat'sApp(LINEみたいなもの)でつないで実況中継でおしゃべりしながら食べたり飲んだり。初めてのクリスマス・イブの過ごし方だったけれどなかなか楽しめた。これも情報技術の進歩とボランティアで礼拝中継をしてくださった母教会の皆さんのおかげである。
では来年もこんなクリスマスを過ごしたいか、と聞かれたら、答えは間違いなく「NO」だ。
80代後半の義父母はコロナが流行し始めて以来、極力外出を控えている。輸入感染者以外ほぼ感染者がいなくなった現在でこそ孫たちに会ったりもしているが、限られた人生の時間の中で子供や孫たち全員が集まって同じ食卓を囲むクリスマスディナーのチャンスが一度でも減ってしまうのはたいへん悲しいことだ。
同じことは教会の年上の信徒の方々にもいえる。東京の母教会でもシンガポールに来るまで夫と通っていた故郷の教会でも友人の北海道の母教会でも、高齢者の信徒のほとんどは感染を恐れて礼拝に出席していないということだった。彼らの中には伴侶を亡くされて独り暮らしの方々が少なくなく、週1度の礼拝出席だけが唯一人とゆっくり話す機会という方も多い。彼らは買い物もできるだけ空いている店で手早くすませて一日中誰と話すこともなく家に引きこもらざるを得ないのだ。
高齢者でなくても何らかの既往症がある人たちも同様だ。私の友人の中には抗がん剤治療を受けていて通院以外は外出を避け誰にも会わない日々を送っている人がいる。癌の進行の恐怖と闘いつつ、同時にコロナ感染防止のために常に細心の注意を払わなければならないというのは想像を絶するストレスだと思う。重症化リスクが比較的低いといわれる50代、60代でもこういう方々の数は少なくないだろう。
世界の大多数の国で人々の行動の自由をがんじがらめに縛っても守ろうとしているのはこのような方々の命である。若くて健康な人たちがたとえ「自分たちは感染しても軽症で済むから問題ない」と言ったとしても同じ規制で縛られるのは、彼らが感染することにより重症化リスクの高い人々への感染リスクが高まるからである。いくら自分は感染してもよい、と考えても、感染した本人が他人に感染させる加害者になってしまうから許されないのだ。
いっぽうで重症化リスクの低い若くて健康な人たちの中には、規制によって職を失ったり収入が激減したりしている人もいる。シンガポールで私が商品を卸していたある大型観光施設のみやげもの店でも観光客がほぼゼロになったため、派遣の販売員は全員いなくなり正社員も施設保全など他の部署に配置換えされて勤務日数も給料も減った人が多い。私の商品も納品にストップがかかって売上がゼロになった。
彼らにも私にも生活があり養わなければならない家族がいる。俳優トム・クルーズが英国の撮影現場でコロナ規制の規則を守らなかったスタッフに怒鳴る音声を聞いたが、「(コロナ禍で)解雇された人たちとその家族のことを毎晩寝る前に考えてるんだ」という言葉に胸が痛んだ。このような方々にはいろいろな補償や転職支援の対策がなされているのだろうが、それでも決して元通りとはいかないのが実情である。
そのような状況下にあって、現在の私たちの唯一の希望はコロナ・ワクチンだ。
先々週からは世界に先駆けてイギリスでファイザー/バイオンテックのワクチン接種開始。アメリカもこれに続き、今週はバイデン次期大統領が接種。シンガポールでもリー首相が「真っ先に接種を受ける」と表明している。世界のすみずみまでワクチンが行き渡るにはまだ相当な時間がかかるのだろうが(シンガポールでは全員接種完了目標を2021年第三四半期としている)、重症化リスクが高い人から順番に接種をしていけば規制も徐々に緩和できるだろう。
日本ではやっとファイザー/バイオンテック製ワクチンの承認試験が始まったところだそうだが、ある調査によると積極的にワクチン早期接種をしたいという医者が1/3程度しかおらず、一般の人の中にも「まだ安全性が担保されていないので受けたくない」と考える人が少なからずいると聞く。「高齢者がコロナで寿命が全うできるならそれでよい」と断言する人までいるそうで呆れるを通り越して顎が外れそうになる。
日本国憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。
高齢者であろうが重大な既往症があろうが、彼らを生命が脅かされるウィルスから保護するのは国の責務であり、それにより職や収入を失う人がいたらその補償をするのも国がすべきことだ。このような非常時に相互に扶助すべく、私たちはせっせと国庫に納税してきたのである。
まだ100%効果や副作用が確認されているとは言い難いワクチンを私たちが積極的に接種すべきなのも同様の理由からだ。感染の連鎖を阻止する集団免疫を獲得するためには重症化リスクが高い人はもちろん、自分はかかっても大丈夫と考えている人も含むより広範な人へのワクチン接種の必要がある。コロナ・ワクチン接種は自分のためではなく、自分が所属している社会のためなのである。
キリスト教ではイエス・キリスト生誕日であるクリスマスを人類が闇から救われ光へ導かれることになった日であると考える。クリスマスの今日、コロナで始まりコロナで終わる2020年を振り返って、このワクチンがコロナ禍という闇から私たちを救う光となるよう、そして人々が進んでその光を灯すよう祈っている。
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さらに一昨日にはオーストリアでユダヤ教シナゴーグ等が銃撃を受ける事件が発生。ヨーロッパ各国がイスラム教過激派テロリストの脅威に再び曝されています。
これに対し仏マクロン首相は殺害された教師の葬儀で「フランスは風刺画を諦めない」と発言。言論・表現の自由を改めて擁護したために、日本を含む多くの国でイスラム教徒によるデモが発生しました。
バングラデシュの反フランスデモに4万人 仏大統領の風刺画擁護に反発 - BBCニュース
加えてトルコのエルドアン大統領やパキスタンのカーン首相など、イスラム教国のリーダーたちがマクロン首相を公に非難。マレーシアのマハティール前首相にいたっては「Muslims have a right to be angry and to kill millions of French people for the massacres of the past( イスラム教徒は怒り、過去の虐殺に対して数百万人のフランス人を殺す権利がある)とツイートし、フランス政府の猛烈な抗議により削除されました。
この現状について「宗教戦争だ」とか「だからキリスト教の国はダメだ」と論評される方々もおられますが見当違いもいいところで、これはフランスが宗教の影響力を排して死守しようとしている徹底した「言論・表現の自由」を守れるかどうかの、文字通り人々の命を賭した闘争です。
フランスで表現の自由が重要視されるのは、1789年からのフランス革命で、人々の自由な意見表明が王政とそれを支えたカトリック教会という権力を倒したという自負があり、国の根幹をなす権利と受け止められているからだ。1881年には冒瀆(ぼうとく)罪を廃止。宗教を批判したり、その象徴を傷つけたりしても罰せられない。今も冒瀆罪があるイタリアやスペイン、ドイツなどと比べ、フランスの自由を特徴付けている。
仏の人間科学者、リュシー・ブルゲ氏は仏紙への寄稿で「(表現、冒瀆の自由は)数世紀をかけた闘いの末に、民主主義が独裁者から勝ち取ったものだ。このおかげで、強力な王権や神々、タブーに挑戦することができた」と解説する。特に保守層では、こうした批判精神が自制に追い込まれることへの抵抗が強い。
フランス「冒瀆する自由」とイスラム教 相次ぐテロの先にあるのは…共存か衝突か - 毎日新聞
マクロン首相がどれだけ批判されようと自分の発言を堅持する背景にはこのようなフランスの歴史があります。EU最大のイスラム教徒人口(全人口の約9%)を抱えながらもキリスト教徒はおろかイスラム教徒の宗教感情にも配慮することなく、フランス的価値観を守ろうとしているのです。
この首相の姿勢に対し、フランス人イスラム教徒も大方が賛意を示しています。
フランス国内のイスラム教徒団体は「フランスでイスラム教徒は迫害されていない」と声明を出し「また、多くのイスラム教徒が冒涜(ぼうとく)とみなす預言者ムハンマドの風刺画について、フランス法ではそうした風刺画を「憎む権利」も認められていると述べつつ、フランスは風刺画を描いたり宗教を風刺したりする権利を放棄しないとするマクロン大統領の姿勢を支持すると表明した。」と突っ込んで言及しました。
フランスでイスラム教徒は「迫害されていない」、仏ムスリム評議会 写真16枚 国際ニュース:AFPBB News
私はイランやチュニジアからフランスに移民した女性監督の映画を観たことがありますが、 イスラム教国の過酷な現実下で育った彼女たちが自分自身を自由に表現できるフランス人になってどれだけ精神的に解放されたかが活き活きと描かれており、上記のイスラム教徒団体の声明にもリアリティを感じます。(ちなみにこれらの映画の上映はフランス大使館が後援しており、映画などの文化を通じてフランス的価値観を世界へ輸出することに仏政府が熱心なのもわかります)
ところで、私は今回の一連の事件の発端となった仏シャルリー・エブド社の風刺画により、2015年にイスラム教過激派のテロリストが銃撃事件を起こした事件直後に下記のブログ記事を書いています。
当時はFacebookのプロフィールアイコンがフランス三色旗で染まるほどフランスを擁護する人々が多かったのですが、今回は反応がだいぶ違い、イスラム教国のみならず世界的に「マクロンはイスラム教徒の宗教感情に配慮しておらず、フランスの言論の自由は行き過ぎなのではないか」という批判がどちらかというと優勢なように見受けられます。
その一例として、カナダのトルドー首相が「表現の自由は常に守っていかなければならないが、限度がないわけではない」と発言したのに対し、2019あいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」開催し政治も巻き込んだ大論争を引き起こした津田大介氏が賛意を示され、Twitterで話題になっています。
いっぽう、私自身はこの6年間で逆に考えが変わりました。現時点の私は、マクロン首相とフランス国民が掲げるフランスの言論・表現の自由を100%支持します。それはこの間に「表現の不自由展・その後」を含め、言論・表現の自由に限度が設けられるとどういう事態が発生するのかを示唆する事件が各国で起こったからです。
例えば、こちらです。
今回もマクロン首相とフランスを真っ先に非難しシャルリー・エブドに風刺画を描かれるなど話題のトルコのエルドアン大統領。昨年私がトルコ旅行をした際にはエルドアン長期政権になってどれだけ物理的、精神的に抑圧された状態が続いているか、私と同年配や少し若い女性たちが口々に語っていたのが印象的でした。
というのも、イスラム教国でありながら長期にわたり自由な世俗主義を選択して発展してきたトルコで、エルドアン大統領は厳格なイスラム主義に回帰する政策を次々に打ち出し、それに反対する人々を片端から排除してきたからです。
ファッションや音楽、映画といった文化をはじめ言論・表現の自由を謳歌してきたトルコ人たちにとって(一部のトルコ人は女性を含めイスラム教徒でありながらお酒もごく普通に飲みます)、現在の状況は苦痛以外の何ものでもないと言います。
2015年10月には、トルコ公衆保健局の職員だったビルギン・チフチが、エルドアンを『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する「ゴラム」になぞらえた罪で起訴された。エルドアンを「白熱電球」と呼ぶのも、エルドアンの顔写真をダーツの的にするのも、トルコの刑法では「アウト」だ。今月23日には、エルドアンを「詐欺師」と呼び、旧ソ連の強権的中央アジア国家キルギスタンなどにトルコをなぞらえ「エルドアニスタン」と皮肉ったオランダ人ジャーナリストのエブル・ウマルもトルコ当局に身柄を拘束された。
そしてエルドアン大統領はドイツの法律を逆手にとって自分を批判したドイツのコメディアンまで訴えたのです。
記事によれば、この時点で「大統領に対する名誉棄損の罪で訴追しているケースは1800件を超える」そうで、現職の大統領が自国の国民や外国人を手当たり次第に訴える、という俄かには信じがたい状況が現在のトルコの日常です。
フランスで問題になっているのは現段階ではイスラム教という宗教だけですが、人の感情を傷つけるのはよくないという考え方が敷衍されれば、容易にトルコのような事態は他の国でも起りうるでしょう(実際にドイツで起きたように)。
私が10年以上住んでいるシンガポールでも、ここ数年間で言論・表現の自由とは何かを深く考えざるをえない象徴的な事件がいくつも起りました。中でも最も話題になったのはシャルリー・エブド襲撃事件と同じ2015年に起きた事件です。
2015年3月。建国の祖リー・クワンユー元首相が亡くなった直後に当時16歳のブロガーで、過去に映像の賞を受賞し天才少年の誉れ高かったエイモス・イー君がYoutubeにある動画を投稿しました。
タイトルは「Lee Kuan Yew Is Finally Dead! (ついにリー・クワンユーが死んだ!)」。故リー元首相をキリストに例えてどちらも" power-hungry and malicious but deceive others into thinking they are both compassionate and kind"(権力に貪欲で悪意の人であったが、自分たちは同情的で親切な人物であるかのように人々を騙した)と酷評。
また、同時にマーガレット・サッチャー元英首相と故リー元首相がアナル・セックスをする画像も投稿。キリスト教徒を侮辱し猥褻な表現を公表したと複数のキリスト教徒から訴えがあったとして(匿名で実際誰がしたのかは確認不可能)エイモス君は逮捕されました。
事件後、エイモス君は「いくらなんでも16歳の思慮分別がない少年なんだから大目にみてやるのが大人の対応だろう」という世論を受けて一時は保釈されたものの、紆余曲折をたどった裁判で実刑判決を受け4週間服役。さらにイスラム教を冒涜したとして2016年に再逮捕され、6週間服役しました。
反逆児エイモス君も二度の服役を経てさすがにまいったのか、アメリカ合衆国に脱出して2017年には政治亡命が認められます。(この際シンガポール法務省がシンガポール政府の立場としての声明を出していますが、ここではリー元首相を批判した件には具体的にいっさい触れられておらず、宗教を冒涜したことのみが語られています。)
私もこのビデオを見ましたが、若干言葉遣いが悪いのを除けば拍子抜けするくらい正統な政府(及び故リー・クワンユー元首相)批判で、この程度のものは日本やアメリカではごく普通に目にしますし、キリスト教批判の表現にいたっては(私自身キリスト教徒ですが)16歳の少年としてはなかなか上手いじゃないかと感心するほどでした。上述のエルドアン大統領の告発と同様「この程度で実刑なのか?」というのが率直な感想です。
さらにこれに続いて起きた2017年の事件でも、言論・表現の自由について再度考えさせられました。
この事件の核心もやはり故リー元首相。しかし今度は彼自身への批判ではなく、彼が生前住んでいた家を巡っての息子リー・シェンロン首相とその弟妹との争いでした。
この家には故リー・クワンユー元首相とリー・シェンロン首相の妹のリー・ウェイリン医師が住んでいました。元首相の没後、現与党People's Action Partyが生まれた歴史的場所であるこの家をリー・クワンユー記念館として再生することをリー・シェンロン首相が計画。これに対し、弟のリー・シェンヤン氏と妹のリー・ウェイリン医師は「父を神格化しようとする試みでリー・クワンユー元首相はそれを望んでいなかった」と反発。Facebook上で非難の応酬を繰り広げました。
この兄弟喧嘩の最中にやはりFacebook投稿をしたのがリー・シェンヤン氏の長男(リー・シェンロン首相の甥)でハーヴァード大学助教授のリー・シェンウー氏。Facebook友達限定で、ニューヨークタイムズ紙が掲載したシンガポールの言論検閲についての記事リンクを貼った上で“Keep in mind, of course, that the Singapore government is very litigious and has a pliant court system” 「もちろん気をつけるべきだ。シンガポール政府はとても訴訟好きで、(政府の意向で)どうにでもなる司法制度をもっているから」という文章を含むポストを投稿します。(友達限定ポストなので全容は不明)
シンガポール裁判所はこのポストの内容を問い質すためにリー氏に出頭を求めましたが、氏はこの命令を無視。今年になって法廷侮辱罪が確定して15,000ドル(約115万円)の罰金の支払いを命じられました(支払わない場合は2週間の実刑)。
リー氏はこの判決はプライベートの表現を抑圧するものであり罪状は認めないが、政府の攻撃から自分自身と家族を守るために便宜的に罰金は支払う、と述べるとともに、この3年間、シンガポール裁判所から数千ページにわたる書類が送られてきてFacebookの友達全員の名前を明らかにするよう執拗に要請されたと明かしています。
言論・表現の自由が国民の当然の権利でない国においては、自分の友人のみに語ったつもりの言葉であっても、公に国や為政者を侮辱したとして処罰の対象になりえます。このようなシンガポールの現実は、言論や表現の自由が保証されている日本からやってきた私にとっては、俄かには信じ難いことばかりでした。そして言論や表現の自由というものがどれほど貴重なものなのか、実際に肌で感じることができたのです。
ですから今の私には、マクロン首相をはじめフランスの人々が連続テロという試練を引き受けてでも何のために闘っているのかということがよくわかります。ごくごく当たり前に存在し享受している権利を得るためにどれだけの多くの人々が犠牲を払ったかを、フランスの学校では子供たちに教えています。テロリストに殺された教師もまた、フランス革命で命を落とした多くの名もない人々と同じく、この権利を守るために命を捧げたフランス人の一人なのです。
一度失ってしまった言論や表現の自由は、それを取り戻すまでに大変な時間がかかる、もしくは二度と取り戻せないかもしれないものであり、何ものにも代えがたい国民の財産です。
夥しい血が流された歴史を経てフランスの人々が手に入れた言論・表現の自由という権利を何としてでも守ってほしい、とやはり同じく先の戦争で多大な人命の犠牲を払ってその権利を手に入れた日本人の一人である私は思います。
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デング熱にかかった。
世界的にはコロナ・ウィルス第二波のニュースでもちきりだが、今年3月以降、大部分の国民が東京23区くらいしかない国内に閉じ込められたきり一歩も外に出られない状態が続いているシンガポールでは、史上最悪のデング熱流行が続いている。特にロックダウン以降患者数はうなぎのぼりで、8月に入ってからは年初からの累計患者数が22,400人、死者20人とコロナよりも高い致死率となっている(8月6日時点のコロナウィルス累計陽性患者数は54,555人死者27人)。
デング熱は初めてだったが、ここまで恐れられているだけあってインフルエンザ程度の苦しさとはけた違いだった。
まず、朝起きたらいきなり日本酒を1升呑んだ翌日の二日酔いのような状態に。万力で頭を締め付けられるような鈍痛と胃から大腸まで続く吐き気(二日酔いではないので当然吐けない)に苦しんでいるとどんどん熱が上がってくるが、苦しさのあまり眠ることさえできない。食欲はまったくわかず、水分を取るのがやっとのあり様で、ベッドの上でうなり続ける。これがまるまる4日間続いた。私は経験したことがないが、抗がん剤治療の苦しさってちょうどこんな感じじゃないだろうか。
5日目にやっと熱が引いたが、今度は全身に湿疹ができて麻疹の子供のような身体に。これは3日ほどで消えたが、その後も血小板の数値が下がったままで体力が回復せず、結局まるまる10日以上寝込んでしまった。これほど長引く病気をしたのは、20年ほど前に帯状疱疹で入院して以来である。
しかも、これはたまたま私の運が悪かったとか、体力が落ちていたからではない。同様のデング熱病人が至るところで発生しているのだ。
まず、同じマンションの隣人たち。うちのマンションは30戸しかない小規模集合住宅なのだが、今年は私が知る限り私を含め3件のデング熱患者を出している。さらに娘の学校の担任教師、私のかかりつけの歯科医、そして今回診療してもらった近所のクリニックの医師もちょっと前に罹患したと言っていた。右も左も患者だらけ。みんな一様に口にするのは、「とにかくつらかった」。つらいのだ。
もちろんシンガポール政府もただ手をこまねいているわけではない。
まだデング熱にかかる前、環境局のお役人が何度もベランダ鉢植えの水受け皿に水が溜まってないか調べにやってきたし、検査でボウフラが発見された場合の罰則も強化された。各集合住宅で毎週行われている蚊の殺虫作業も、政府のアドバイスで最近は週2日しているところも増えている。そのかいあってか先週からは若干下がり気味ではあるものの、まだまだ落ち着いたとはとても言えない状況だ。
それもそのはず。そもそもデング熱を媒介する蚊が大量発生している場所が放置されているのだ。
最たるものは建築現場。政府の初動ミスで外国人建設ワーカーにコロナ感染が広がってしまって以降、建設現場は開店休業状態になり放置されている。入ってみたわけではないが草は伸び放題、汚水は溜まり放題だろう。お役人がいくら立ち入り検査しても改善するワーカーがいないのだから、検査するだけムダである。
もう一つの元凶は、「ガーデンシティ」の名の下に国中にあふれる緑地帯。熱帯だけにこまめに草を刈りこまなければアッという間にジャングル状態になるのは必然であるが、普段この作業をしているのも外国人ワーカーたち。彼らが隔離されて仕事ができていないのであるから当然草は伸び放題。やぶ蚊の孵化場になっている。
政府は外国人建設ワーカー全員に実施していたコロナ検査がほぼ終了したと発表し、今月後半からは建設現場も通常の工事が再開する様子なので若干マシにはなるだろうが、ここまで拡大してしまったデング熱が一気に収束するとは思えないのが現状である。
そもそもコロナと同じく、デング熱もワクチンや効果的な治療薬がないウィルス性感染症だ。数は少ないとはいえ、シンガポールはじめ東南アジアや南米など熱帯でウィルスを媒介する蚊が発生する地域では毎年犠牲者が出ている。コロナと違うのは、抵抗力のない高齢者の他、10歳以下の子供も生命の危険に晒されることがままあるということだ。私も自分がかかってみて「これは弱ってたら死ぬかもしれないな」と実感した。
いっぽうで、唯一効果があったのは昔からの民間療法であるパパイヤの葉の青汁。恐ろしくまずいが、確かに飲むだけでだいぶ吐き気や熱が収まった。世界最先端の医薬品業界を擁するシンガポールにしてこれである。21世紀の最先端技術をもってしても感染症対策は、人海戦術で鉢植えの水受け皿にボウフラがいないか確かめたり、パパイヤの青汁くらいしかないのである。
本日、8月7日時点でコロナ・ウィルス感染者は全世界で1,926万人、死者数は71万7千人。ワクチン開発のめどは今のところたっておらず、数か月後に北半球がまた冬に向かう頃までにワクチンが供給されていなければ、再び欧米を中心に大流行が起こる可能性も捨てきれない。その頃には、デング熱と同じく誰がかかっても不思議でない感染症になっているのかもしれない。
逆に、コロナ・ウィルスのワクチンが開発されたりウィルスの遺伝子変異によって突然消えたりしたとしても、また似たようなウィルス性感染症は発生するだろう。なにせこれだけ歴史のあるデング熱のワクチンでさえ発見できていないのだ。
抗生物質とワクチンによってほとんどの感染症を制圧したかにみえた人類は、コロナやデング熱のような抗生物質もワクチンも効果がない感染症によって、再び結核やコレラなどの感染症が猛威をふるい、多くの命を奪ってきた暗黒時代に逆戻りしつつあるような気がしてならない。
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結果は、93議席中、与党PAP(People's Action Party)が83議席を確保して圧倒的多数は守ったが、野党労働者党(Workers’ Party)が2選挙区10議席を獲得し躍進。与党の得票率も前回から9ポイント近く落として61.2%と、国民の3人に1人以上が野党を支持という結果に終わった。
これを受け、リー・シェンロン首相は「信任を得た」と勝利宣言しつつも、国民の声を真摯に受け止めると表明。実際、野党が獲得した2選挙区の他にも予想以上に与党が苦戦した選挙区はいくつもあり、次期首相の座が決定しているヘン財務大臣が送り込まれた選挙区でも30代の人気女性候補率いる労働者党が46.59%を獲得して勢いをみせつけた。
今回の選挙はシンガポール史上初めて、全選挙区に野党候補が立候補。さらにコロナ対策のため集会が禁止されて1日中選挙ニュースがテレビで放送されることとなり、選挙権をもたない永住者である私もエキサイト。私が住む地域もベテラン議員を複数抱えながら接戦で野党が40%以上の票を獲得した。
最終結果は与党の勝利に終わったものの、今回の選挙が意味するのは、野党の大躍進=与党への国民の支持低下とみて間違いないと思う。アジアの国々の中でも有数の繁栄を誇り、日本の1.5倍もの1人あたりGDPを享受するシンガポールで、その舵取りをする与党に厳しい選挙結果が出た理由はなぜか?
最大の要因は政府のコロナ対策における失策だろう。
シンガポールの7月10日時点のコロナ罹患者数は4万5千人と、日本の2倍以上であり、香港、台湾、韓国など他のアジア先進国と比べてもけた違いに多い。しかし、その大部分が外国人建設労働者で占められていて、自国民の感染率は極端に低く、100万人あたりの死亡者数もわずか4人にとどまっている(日本は8人)。この最大の原因は外国人建設労働者クラスターが発生した際の政府初動対策の失敗だ。
南アジア系の労働者が圧倒的多数を占める外国人建設労働者が住む寮には、以前から過密で劣悪な環境の寮が多いことが知られており、人権団体などが政府に対して改善を要求していた。今回もこのような寮が感染の温床になり爆発的に感染拡大(同じ寮でも感染が広がらなかった所もあり、その違いはやはり過密かどうかだと労働者たちが証言している)。シンガポールはロックダウンをせざるを得なくなった。
いっぽう、コロナには感染しなかったものの、ロックダウンの結果として職を失ったのがシンガポールの一般市民だ。シンガポールの経済紙『ビジネスタイムズ』は2020年の解雇は小売り、航空、観光業界を中心に10万人以上、失業率は4~5%になる可能性があると予測。中から低所得者層を中心に国民生活を直撃している。
では、なぜ優秀なことで知られるシンガポール政府は、外国人建設労働者の感染対策を直ちに講じなかったのか?
選挙期間中、政府は対策を講じなかったどころか、雇用者に対して発病者を病院に連れていった場合はその労働者の労働ビザを取り消すという通達を出したと野党が告発した(これに対し政府はこの情報はデマであり、そのような事実はなかったと反論)。しかし、有権者たちは、政府が労働者寮の規制を強化し環境改善に動き始めた際に「建設コストが増大するため住宅価格の高騰はやむを得ない」と言及したことを思い出して、さもありなんと納得した。
政府は国民に対して、経済発展のためには労働者の環境(この場合は外国人労働者の住環境)をある程度犠牲にするのはやむを得ない、と考えていることを露呈してしまったのである。
同様の政府の考え方は教育行政にも言える。シンガポールの教育は世界でも有数の質の高さを誇り、最新のPISAの結果でも中国に続き3分野すべてで2位。国民の大半がバイリンガル以上であることでも知られる。
しかしその実態は、幼稚園からの塾通いを肯定し、大学に至るまで熾烈な受験競争を子供に強制。親には多大な教育費の支払いが重い負担となってのしかかっていて、落ちこぼれた子供たちが非行に走り、麻薬中毒になるティーンエイジャーが年々増加している、というお世辞にも理想的とはいえない状況だ。
このように経済発展を最優先し、その目標に向けて国民をひた走りに走り続けさせてきた与党に対し、今回の選挙結果は「もういい加減にしてほしい」という国民の悲鳴であったと私には思える。
実際、コロナ失業対策として今後10万人の雇用を約束するという与党公約にも、国民の再教育を奨励し、訓練機会を与えるという条件がついていた。つまり、今までと同じスキルレベルだったら失業して当然なのだから、国民は自分の力でレベルアップすべし、その後押しを政府はする、というのである。
物心ついた頃から必死に勉強し続け、やっと働き始めても労働の傍ら常に教育訓練を受けて死ぬまでスキルを磨き続けなければいけない。自分たちの人生のすべてを経済発展のために捧げ続けなければいけない、という国の要求に、特に若い世代の国民が「ノー」を突き付けたのが今回の選挙結果ではないかと私は思う。
選挙では敗れたものの、労働者党の若い候補者たちが健闘した私が住む地域の選挙区の36歳の労働者党員、ナタニエル・コー候補のシンガポールの将来への希望の項目には胸を打たれた。
その中で彼は「これ以上のショッピングモールや住宅プロジェクトではなく、緑にあふれた環境を取り戻したい」、そして「シンガポールを成功させるというパイオニア世代のミッションは完遂された。私たちに新たなミッションをみつけさせてほしい」と語っている。
経済発展と豊かさに向けて邁進してきたシンガポールの時代は終焉を迎えつつある。
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伊藤比呂美が100%人間ではない何か別のものに変わった。
比呂美は私よりちょっと先の人生を凄まじい形相で進んでいった人である。産み、産まされ、育て、育てさせられ、噛みつかれ、噛みつき、愛し、愛され、傷を負い、傷を負わされ、世話をし、世話をさせられ、聞き、聞かされ、満身創痍で振り返らずにずんずんと歩いていった人である。
思春期の子供たちには牙をむかれて閉じこもられ、母と葛藤し父の寂寥に相槌を打つために何度も何度も太平洋を横断し、夫に嫌味を言われながらも下の世話をし、いろいろな性格の犬たちと一緒に南カリフォルニアの荒地を歩いた。
そして、時間が経って、子供たちも親たちも夫も犬たちもいなくなった。
いま、比呂美の傍にいるのは流れるように毎年替わっていく無数の学生たちと、一緒に熊本の河原や山を歩く怯えた犬のホーボー、彼女と犬の前に突如現れては抑揚のない声でつぶやく古老たち、様々に同じ境遇を生きる何人ものヨーコさんたち、河原や山や家の中にはびこり繁茂しては死んでいく植物たち、そして彼女とホーボーがやってくると森を鳴らして歓迎する山の神。
これまでの比呂美の詩(エッセイでも小説でも比呂美が書くものはすべて詩だ)で繰り返し描写されてきた、くっきりとした自我と輪郭と匂いをもち、比呂美の存在そのものに戦いを挑んできた子や男や親や犬たちはもう登場しない。代わりに半透明な体であちらとこちらを行き来する、カオナシのようなものたちばかりが現れては消えるのだ。
彼らは比呂美自身の中に住んでいる。鏡を見れば母の姿が映り、後ろから話しかけないよう、はっきりと発音するよう繰り返し要求した父や夫の言葉が、聞こえにくくなった耳に甦る。山の匂いの中に昔の男の匂いがたちのぼり、ポーランドのお菓子から忘れたポーランド語がぽんぽーんと形をもって飛び出してくる。
比呂美の日本語さえ、indigenousな日本語ではない何かに変質している。私の中で彼女の日本語は容易に英語に変換されてしみこむ。でもその変換された英語は、南カリフォルニアの赤い皮膚と麦藁のような髪の人たちが話す言葉ではなく、私の周囲にたくさんいるタミル語やマレー語や広東語や福建語やタガログ語がもともとの自分の言葉である人たちと同じ種類の質量と温度をもった英語だ。
比呂美はどこに行ってしまうのだろう? 本人もそう慄いているのかもしれない。だから書くのだ。
Hey, you bastards! I’m still here!
と。
この本を読み終わったばかりなのに、次に比呂美が見せてくれるであろう世界をすでに楽しみにしている。
]]>1980年代後半。当時の上司が来日中のビル・ゲイツ氏(まだWindows発売前のMS-DOS時代でベンチャーの旗手としては有名だったが今ほどの世界的著名人ではなかった)を接待することになり、頭を抱えていました。
下戸とはいえそれなりに美食家で、外人受けする寿司屋やら天ぷら屋やらしゃぶしゃぶ屋やらをよく知っている上司がなぜそんなに悩んだのか? その理由は「ビルはハンバーガーしか食べない」からでした。
あからさまに嫌な顔をしないものの、当時の彼は大変な偏食で、自分が食べ慣れたもの以外にはほとんど口をつけなかったそう。さすがに接待でマックに行くわけにもいかず、当時はまだバブル前で高級ハンバーガー屋もほとんどなかったため、連れていくところがないと上司は嘆息していたのです。
時は流れて2020年。
世界一の大富豪となった彼はビジネスの第一線を退き、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を設立して社会貢献に勤しんでいます。そしてこの財団が時価1300万ドル(約14億円)(2019年9月末での保有残高にて計算)もの出資をしている会社、ビヨンド・ミート社こそゲイツ氏の大好物、ハンバーガーのパテが主力製品の会社です。
しかし、同じハンバーガーでもこの会社のバーガーは一味違います。いっさい肉を使わない人工肉、動物性食材を全く使用しないヴィーガン・バーガーなのです。
ビヨンド・ミートは2009年、イーサン・ブラウン氏によって設立された人工肉製造販売会社。設立当初からビル・ゲイツやTwitter創業者ビズ・ストーンをはじめ、著名ハイテク企業創業者らから投資を募って急成長。2019年にはNasdaqにも上場し1年間で売上240%増と驚異的な成長を遂げつつあります。
主力製品はバーガーパテですが、それ以外にも人工肉ソーセージやミートボールなど製品ラインアップは多彩で、米国内のホールフーズやテスコなど全国チェーンスーパーで販売する他、輸出にも積極的。私が住むシンガポールでもスーパーやネットスーパーで手軽に購入でき、日本市場でも販売間近と聞いています。
そんなビヨンド・ミートのバーガー・パテを使ったハンバーガーが2020年6月3日、つまり昨日から中国で販売開始というニュースが報道され、投資家の間で話題になっています。
この記事によると、中国のファストフードチェーンのフランチャイジー、ヤム・チャイナ社と提携し、北京、上海、杭州、成都の4都市のKFC、タコベル、ピザハットで試験販売。うまくいけば大々的に全国展開する見通しとなり、株価が急騰して、コロナショックで低迷していた5月中旬の最安値の2.4倍近くになるという大逆転劇となっています。
なぜ今、中国なのか?
いうまでもなく中国は世界最大の食品市場。異様なまでに食に執着し「椅子以外の四つ足は何でも食べる」と言われる14億人が、世界各地の最高級食材からワシントン条約違反の希少動物まで貪欲に探し求めて輸入する国です。世界中の食品製造業者の販売ターゲット市場としては、もちろんじゅうぶん魅力的。
しかし、ビヨンド・ミート社の製品はいくら「肉そっくり」と言っても所詮は本物のミートではないまがい物。世界最高の和牛をはじめ美食に慣れた中国人が先を争って買い求めるとはとても思えません。
しかも主戦場は富裕層向けの高級市場ではなくミドルクラス対象のファスト・フード。だいぶ値段がこなれてきたとはいえ、シンガポールでもパテ2枚パックで約800円、つまりバーガーパテだけで1枚400円もコストがかかる人工肉ハンバーガーが飛ぶように売れるものでしょうか?
通常であれば、まずはミドルクラスの平均所得が中国より高い、先進国のファスト・フードチェーンである程度の実績をつけてから中国市場参入、と考えるのが順当だと思います。反対に、その過程を飛ばしていきなり中国を主戦場に選んだのには、実は切羽つまった事情があるのはないかと思うのです。(ビヨンド・ミートのコンペティター、インポッシブル・フーズは米国内のバーガーキングやマックなどで人工肉バーガーを販売していますが、まだまだ成功というには遠く及ばない状況のようです)
昨年はブラジルのアマゾン川流域で大規模な森林火災が起き、国際的なニュースとなりました。アマゾン森林火災は毎年のように報道されますが、昨年は近年になく件数が多く、その煙は遠く離れたサンパウロまで届いたといいます。こうして裸になった土地は主として農地として利用されます。
では、このように拡大してきた耕地で、いったいどんな農産物を作っているのでしょうか? ブラジルはBRICsの一角を占め、めざましい経済成長を遂げてきた国ですが、経済発展とともに人口が爆発的に増えて、米や小麦栽培を増産する必要にかられているのでしょうか?
確かにブラジルは農業大国で、大豆は輸出品目2位に挙げられます。いっぽう、近年めざましく輸出が伸びているのが食肉。ブラジル産鶏肉はスーパーでみかけたことがある方も多いと思いますが(シンガポールでは冷凍鶏肉はほぼ100%ブラジル産)、流通量こそ少ないものの金額ベースで鶏肉に比肩するのが牛肉輸出なのです。
2019年のブラジル牛肉輸出量は約183万トンで前年比12.4%増。金額ベースでは約27億ドル(約2900憶円)で全輸出量の約8割が中国向け。牛肉生産量は右肩上がりで伸び続けていますが、国内需要より海外需要が強く、2020年には260万トンの輸出が見込まれるそうです。いっぽうの中国の2020年の牛肉輸入予測量は290万トンとなっていますので、ブラジルの牛肉生産量の伸びはイコール中国の牛肉輸入量の伸びと考えていいでしょう。
中国ではもともと「肉」といえば豚肉をさすほどで、牛肉の消費量はさほど多くなかったのですが、開国・経済成長が始まった80年代後半から一貫して牛肉消費量が伸び、国内消費量はこの頃と比べて10倍以上になっています。
それにつれて国内牛肉生産量も伸びて90年代には一部輸出もしていたのですが、国内需要に供給が追いつかないため内需に回るようになり、それでも足りずに2010年代からは輸入が始まります。そして2013年にはたった41万トンだった輸入量が290万トンまで7倍近くに膨れ上がったのです。
さて、ブラジルの食肉牛飼育は国土の狭い日本と違い放牧型で、2013/14年度の統計によると1ヘクタールあたりの飼育頭数は1.3頭。体重約700?の牛からとれる食用肉は約230?ですから、1ヘクタールあたりの肉量は約300?。ここまで育てる年数を考慮しなければ、260万トンの食肉生産には870万ヘクタールの耕地面積が必要であり、日本の国土面積の約23%になります。たった10年ほどでこれだけの草地面積が必要になったわけですから、熱帯雨林を伐採して調達する必要があったのです。
問題は森林伐採だけではありません。
牛1頭が1日にげっぷやおならとして排出するメタンガスの量は1日あたり160から320リットルと非常に多く、世界のメタンガス発生量の約24%が家畜により発生すると言われます。2015年の数値ではメタンガスが世界の温室効果ガス排出量の16%を占めており、しかも、同じ量のメタンとCO2を比較した場合、メタンには28倍もの温室効果があるというのです。
つまり牛の飼育頭数が増えれば増えるほど、地球環境が急激に悪化していくのです。
ビヨンド・ミート創立者のブラウン氏も、投資者であるゲイツ氏も当初からこのビジネスを単なる食品ビジネスとは考えず、環境問題を解決し、人々の健康や動物愛護に寄与する事業と位置づけています。そんな彼らが昨年のアマゾン大規模森林火災や急増する中国の牛肉輸入量を目の当たりにしたとき、企業ミッションとして中国市場での一定のシェア確保が喫緊の課題であると考えたのではないでしょうか。
この記事でも書きましたが、今回のコロナ禍を数年前から予測し警告していたジャーナリスト、クオメン氏は、エボラ熱、HIV、SARS、鳥インフルエンザなどの感染症の頻繁な流行は森林伐採により野生動物と人間や家畜の居住域が接近したために起きたものだと述べています。
その上で今後の予防対策として私たちができること(しない場合は今後も繰り返しコロナのような世界的疫病流行が数年おきに発生する)として、旅行を控えること、子供をたくさん産まないことと並び、肉、特に牛肉をできるだけ食べないことを推奨しています。
たまに食べれば牛肉はごちそうですが、日常的に牛肉を食べるようになればなるほど、地球環境が破壊され、そのツケは私たちの命という形で払わされることになるのです。
ビル・ゲイツ氏はベジタリアンではないそうですが、ハンバーガーしか食べなかった彼が、人工肉バーガーしか食べなくなる日も遠くないかもしれません。
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]]>シンガポールのロックダウン(政府はサーキットブレーカーと呼んでいる)解除まであと5日になった。
大規模寮に住んでいる外国人建設労働者の感染対策に失敗したため、シンガポールは感染者数が現時点で3万人超えというアジアでも有数の感染国になってしまったけれど、一般市民の感染はとても少なく、コロナウィルス感染により死亡した人も現時点では23人しかいない。なので、ウィルスに対する危機感よりもロックダウンによる精神的・経済的閉塞感の方がずっと大きいというのが正直な気持ちだ。
欧米と違って死亡者が少ないから、という理由もあるけれど、私にはどうもこの感染症に対する恐怖感が沸き上がってこない。
最初は違った。1月に中国で感染が爆発して武漢が閉鎖された頃には、この病気のことはほとんどわかっていなかった。本当に怖かった。自分がかかって死ぬかもしれない恐怖より、10歳の娘が感染して死んでしまったり重篤な後遺症が残る可能性が否定できなかった。旧正月休み明けには学校を3日間休ませた。
しかし、この感染症で大部分の20代未満の子供たちが深刻な被害を受けないことがほぼ確実になってきた現在、私の恐怖心は消えた。私や夫は50代半ばなのでもう十分それぞれの人生を生きてきた。2人とも一番多忙だった時期を過ぎて現在は子育てや趣味が中心のセカンドライフを送っている。社会的にはいてもいなくてもたいして影響がない者たちだ。子供さえ助かれば私たちはどうでもいい。
現在は深刻な持病もないし、もし今日コロナウィルスに感染して、数日、もしくは数週間で死んでしまうとしたら、ひと昔前にみんなが憧れていた「ピンピンコロリ」死じゃないだろうか?
ガンで闘病して数年にわたり苦しい治療を繰り返すわけでもなく、糖尿病や腎不全で不自由な生活を長く続けなければならないわけでもなく、心臓のバイパス手術や脳溢血後のリハビリも不要で、認知症みたいに周囲に迷惑をかける必要もない。私としては、コロナ死こそ理想の死に方じゃないかと思うのである。
とつらつらと考えたのは、このロックダウン中に、私の理想とはかけ離れた闘病生活を送らざるをえない可能性に直面させられたからだ。
発端は胸部の超音波検査で左胸に9?程度のしこりがみつかったことだった。
私は50歳になった頃から更年期障害の症状緩和のためにHRT(ホルモン補充療法)を受けているため、1~2年おきに子宮がん検査(パップテストと超音波)と乳がん検査(マンモグラフィと超音波)が義務づけられている。これまでの検査でも何度か、子宮や乳房にこのような小さなおでき状のものがあったことはあった。しかし、今回は少し大きかったため乳がんの生体検査を受けることになったのだ。
大きいといってもマンモではみつかない程度。たまたま超音波検査でみつかったから大ごとになっただけで、自分の体の見えるところ(皮膚の上)にはこのくらいの大きさのおできなど何個もある。年齢を考えたら当然だろう。
そんな検査しなくてもいいです、といちおう医者には言ってみたけど「ではHRTは続けられない」と返されてしぶしぶ受けることにした。女性ホルモンを飲まないとたちどころにホットフラッシュが復活して体調が最悪になるからだ。
結果、悪性の細胞はみつからなかった。しかし、良性のおでき細胞もみつからなかった。
そこで医者が言うには、「この結果は超音波の画像と一致しない」ので、採取した生体組織はこのおできの細胞でない可能性が高く、とすると悪性であるかもしれないので、この近辺の部位を直径5?ほどごそっと切除して検査する、というのである。
おいおい、ちょっと待ってほしい。悪性の細胞がみつからなかったのにそんなにたくさん切っちゃうのですか? ほんの一つまみの生体細胞を針で採っただけでも1週間以上胸が痛くて掃除やヨガもできなかったのに、ベニスの商人じゃあるまいし、5?の塊を取ったりしたら数か月はまともな生活ができない。また、一度取ったとしても、おできだからまたできる可能性も高い。こんなことを一生繰り返すのですか?
さんざん医者と議論(口論に近い)したあげく、もう一度超音波検査を受けておできが6?になっているのを確認してもらい、消えた3?分は検査した生体の中に入っているはずで、そこに悪性細胞がなかったのだから手術を受ける必要がないことを主張し、今後、2,3か月おきに定期的に超音波でおできが大きくなっていないかチェックすることを条件にHRT継続を認めてもらった。
ひとまず事なきを得る。
いくらクオリティ・オブ・ライフをキープしたい私でも、明らかに乳がんであるのに手術や抗がん剤治療も受けずにがんが全身に広がっていくのをじっと傍観したいわけではない。ただ、悪性であることも証明されていないのに、悪性である可能性がなくはないから、という理由で不必要な手術を受けさせられたり、余計な検査を強制されたりするのが嫌なのだ。
「将来乳がんになる可能性が高いから」と乳房を取ってしまったアメリカの女優さんがいたけれど、私だったら絶対にしない。虫垂炎になってしまうかもしれないから、といって盲腸を手術で取ってしまうのと同じじゃないかと思うからだ。盲腸になったらなった時のこと、がんができたらできた時のこと、その時に最善を尽くせばいい。
とはいえ、生活習慣病は違う。
これは長い時間をかけてだんだん病気が悪化していくものであって、糖尿病、高血圧症、心筋梗塞症はもちろん、一部のガンや認知症や腎不全なども含めて、高齢者の病気の半分以上は運動習慣や喫煙や食事が原因になっている。そしてそれらの習慣が最終的に死因になる。
私の祖母は76歳で心不全を起こして入院し翌朝亡くなった。数えの29歳で未亡人になり、女手一つで事業を営みながら3人の子供を育て、還暦で引退した後は習い事に旅行にと好きなことと美味しいものを存分に楽しみ、亡くなったときは「大往生」と言われた。
おばあちゃんっ子だった私は後追い自殺したいほど悲しかったが、今思うと彼女にとってはこの死に方はとても良かったと思う。好きなものを食べて、好きなことをして全うする人生より幸せなことがあるだろうか?
しかし、昨今は心不全で人はなかなか死なない。医学の進歩だ。私の周囲にも何人かいるが、バイパス手術を受けたりペースメーカーを埋め込んだりして助かる。もちろんそれまで通りの生活はできず、若くして仕事を辞めざるをえなくなった人もいる。
脳梗塞も同じ。以前は死に至る病だったけれど、現在では半分以上が助かり、その後何十年も生きる方々も少なくない。その中には半身不随になる方もいれば、長年リハビリを続けられる方もいる。
医学の進歩は素晴らしいことだ。しかし、そのおかげで私たちは「ピンピンコロリ」死から年々遠ざけられている。もちろん、重い病気をして障害を負っても、何度も手術を繰り返す生活を送っても、人が生きるということは、生きているというだけで素晴らしい。ただ、それは永遠に続けられることではない。
人はいつか、必ず、何かで死ぬのだ。
世界のコロナ対応を見ていて思うのだが、ほとんどの国やほとんどの医者やほとんどの人たちは、常に「人を絶対に死なせないために何をしたらいいか」を考えて行動しているような気がする。死ぬことは、そんなに悪いことなのだろうか?
そう考えていない人たちもいるようだ。
コロナ対策で他のヨーロッパ諸国とまったく違う対応をとったスウェーデン。ロックダウンはせず、リスクの高い高齢者の外出規制もしなかった(高齢者との接触を避けるようにという指導は行っている模様)。基本的には、自分の命を守るためにどうするかは自分で決めてください、という姿勢で、この対応は高齢者が自力で食べられなくなったときに、点滴をしたり胃ろうを作ったりして延命をしない、というこれまでのこの国の医療方針とも一致している。
確かに天寿を全うして老衰で死ぬのは人として一番幸せなことだろう。
でも、多くの人はそれほど幸運ではない。日本を含む多くの先進国で平均寿命と健康寿命の間に5歳程度の開きがあることからもわかるけれど、自分の思うようにならない身体を抱えて、死にたくても死ねない人がたくさんいるのだ。
腎不全で人工透析を受けている方は透析治療中も病状が進行し、大半が5年前後で亡くなるそうだ。腎臓移植を受ければこの方々の寿命はさらに伸びるのだけれど、あえて手術を選択しない方々も少なくないという。週3回、数時間にも及ぶ透析治療を続けながら、この方々がご自分の死と対峙し受容していかれる過程を私は尊敬する。
ある方がTwitterで、一人の高齢者の方が夕刻に担架で救急車に運び込まれる写真を載せられて「これが彼が見る最後の夕陽かもしれない」という意味のことを書いていらっしゃった。私はその夕陽が美しくて本当に良かったな、としみじみ思った。この世で美しい夕陽を見て人生を終えられるなんて、なんと素晴らしいことだろう!
人生は終わりがあるから美しい。
美しい終わりを迎えるために、私は今日を生きたいと思う。
]]>
The next big human pandemic—the next disease cataclysm, perhaps on the scale of AIDS or the 1918 influenza—is likely to be caused by a new virus coming to humans from wildlife.
人類が次に経験する大きな疫病―次の激変をもたらす疾病は恐らくAIDSか1918年のインフルエンザ規模になるーは、野生動物から人間に感染したウィルスによって起こるだろう。
HIVやエボラ熱などの感染症取材を長年にわたり続けてきた科学ジャーナリスト、デヴィッド・クワメンの2012年の著書『スピルオーバー』は、コロナウィルスによる厄災到来を正確に予測していた。
この中で彼は中国南部の洞窟に住む蝙蝠のウィルス(実際に中国の学者たちが2017年に雲南省で採取したウィルスについての研究を発表)が人に感染する可能性を指摘。このウィルスは現在のCovid-19ウィルスと97%同じ構造をもつという。
世界の感染症学者やジャーナリストなどの専門家たちからすれば、今回のコロナ禍は想定外とはほど遠く、当然予想されたことだったのである。
にもかかわらず、世界の行政府がCovid-19発生に先立って何の備えも行ってこなかった怠慢を彼は厳しく非難する。ビル・ゲイツ氏が数年前にコロナ感染症の到来を予言していたとネットで話題になったが、その程度のことは感染症業界では常識であり、各国政府や米危機管理局の感染対策セクションも当然知っていた。しかし警告を真剣に取り合わなかった行政府の姿勢が今日の大混乱の元凶となったのだ。
野生動物がもつウィルスは150万種類以上あると考えられており(特に哺乳類の種の4分の1を占め、18~20年と寿命が長く集団生活をして集団内でウィルスを拡散する蝙蝠は各種ウィルスの宝庫)、巨大なウィルス貯水池を形成している。そこから何かの拍子にウィルスがこぼれ落ちたとき(spillover)、未知のウィルスが野生動物から家畜に飛び移り、(もしくは直接)人間に感染を広げるという。
つまり、今回のコロナ禍はそのほんの一例にすぎず、将来的にあらゆる種類の感染症が野生界から人間界にもたらされる可能性が非常に高いということだ。クワメン氏は、今後10年に一度は今回のコロナ禍のようなウィルスによる大掛かりなパンデミックが繰り返されるだろうと予言する。彼の警告はこれまでの例を拾っても控えめにすぎるくらいだ。
ボリビア出血熱、ボリビア、1961年;マールブルグ病、ドイツ、1967年;エボラ出血熱、ザイール及びスーダン、1976年;H.I.V.、ニューヨークとカリフォルニアで発見、1981年;ハンタウィルス、米国南西部、1993年、ヘンドラウィルス、オーストラリア、1994年;鳥インフルエンザ、香港、1997年;二パウィルス、マレーシア、1998年;ウエストナイル熱、ニューヨーク、1999年;SARS、中国、2002-3年;MERS、サウジアラビア、2012年;エボラ出血熱再来、西アフリカ、2014年
しかしただ手をこまねいて次の厄災を待つだけではなく、私たちが多少なりとも被害を軽減するためにできることがないわけではない。蝙蝠を筆頭とするウィルスの宿主である野生動物取引禁止は最も手っ取り早い方法であるが、それ以外にクワメン氏が推奨するのは以下の3点だ。
1.できるだけ肉を食べない。
私たちは野生動物の生息環境である熱帯雨林や森林を切り開いて牧草地を作り、家畜を飼育する。宿主が減少したウィルスは家畜に乗り移り、そこからさらに人に乗り移っていく。
地球上の陸地のうち居住可能なのは全体の71%。そのうち半分が農業に使用されており、さらにその77%が牧畜用だ。つまり、地球上の全陸地の3割近くで家畜が飼育されていて、アマゾン森林伐採や焼き畑農業により拡大を続けている。ここが野生動物から人にウィルスが乗り移るステップアップ地帯であり、食用肉の流通を減らすことによりこの面積の拡大を阻止できる。
2.できるだけ旅行をしない。
ウィルスは人に感染し、飛行機に乗って世界に拡散する。1999年にやはり中国で発生したコロナウィルスが引き起こしたSARSがアジア内にとどまったのに対し、今回のCovid-19が世界中で猛威をふるったのは、発生地である中国から大量の中国人旅行客が世界に散らばってウィルスを拡散したことが最大の原因であると考えられる。
仮にどこかの地域で未知の感染症が発生したとしても、世界に拡散するスピードが遅ければその間に対策を講じることができる。時間稼ぎのためには航空機による大量観光客輸送の時代を終わらせる必要があるだろうし、あのウォーレン・バフェットがコロナ以降を見越して大量の航空会社保有株を売却したのも象徴的である。
3.子供をできるだけ産まない。
「あなたがまったく動物の肉を食べないヴィーガンになっても、まったく旅行をせずに家に閉じこもっていても、子供が4、5人もいればその効果は帳消しになる」とクオメン氏は語る。
地球環境にとって最大の脅威は人類が増え続けることだ。
しかし、いくらグレタさんに怖い顔で「How dare you!」と睨まれても、すでに生まれてきてしまった私たちは自殺するわけにもいかないし、現在享受している文化的な生活のすべてを放棄して縄文時代の採集生活に戻れるわけでもない。人間の生活による環境への負荷増大を止めるには、人類の再生産を減少させてその影響を最小限にとどめる消極的な選択しかないのだ。
先進国の多くで少子化が進んでいるのは、無意識のうちにこのような選択が働いているのかもしれない。
感染症問題とは、つまるところ環境問題なのである。
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世界のどの国も同じであるが、私たちには今後、このような感染症による厄災を定期的に何度も受け入れられるだけの社会的余裕も経済的余裕ももちあわせていない。コロナウィルスの脅威がまだ生々しく残っている今こそ、次の災禍を回避するための対策を真剣に論じるべきであろう。
]]>本日はイースター。キリストが復活されたとされる日だ。
クリスマスは大好きな日本人だけど、イースターにはまったく興味がないようだ。プレゼントの習慣がないからきっとたいした商売にならないのだろう。
しかし世界人口の3割を占めるキリスト教徒にとって、イースターはクリスマスより数倍重要なイベントである。クリスマスを取るかイースターを取るかと言われたら、みんな迷わずイースターを取るはず。それは彼らの信仰にとって決定的な出来事がこの日に起こったからである。
・いったん死んだ人が生き返る?
・ありえないでしょう。
・ゾンビじゃあるまいし。
・科学で説明できないのは奇跡じゃなくて迷信。
・もし実際に複数の人たちが復活したイエスに遭ったのだったらそれって集団ヒステリーじゃないの?
しかし、このキリスト教徒における最重要イベントに対して、無宗教の現代人が抱く感想は概してこんなものではないだろうか? 私自身も洗礼を受ける直前までそう思っていた。
そして、キリスト教徒になってから30年以上たつ今も、完全に、本当に、絶対に、イエスの復活を信じてるか、と問い詰められたら、確信をもってイエスと答えられる自信はない。
子供の頃、ミッションスクールや教会学校に通ったことがある人で「キリスト教にシンパシーは感じるけど洗礼を受けようとは思わない」という人が時々いるけれど、たいてい私のように復活で「躓いて」いる。
というのも、新約聖書にある他の「奇跡」はある程度事実として信じられても(死人を生き返らせたというのは仮死状態だった人がたまたま蘇生したのだとか、パンや魚を大量に増やしたのは少しの食料をみんなで分け合って食べただけ、などの解釈はちょっと苦しいけど成立しないことはない)、イエスの復活だけはどう理屈をこねくり回しても説明できないからだ。
いっぽう、科学の力が宗教を凌駕するようになった20世紀において、キリスト教神学最大のテーマとなった「史的イエス」研究は、長いキリスト教の歴史において人間としての属性が曖昧になり輝かしい天上の神となってしまったイエスを、貧しい大工の息子として再発見することから始まった。
気の遠くなるような文書研究によって(カトリックや多くのプロテスタント教派で正典とされる新約聖書の文書以外にもさまざまな文書を用いながら)、聖書の中で実際に起こったであろうこと、実際にイエスが言ったり為したりしたであろうことと、後世に付け加えられたことをできる限り仕分けしていく作業の中でわかったのは、
イエスは栄光ある神としての人生を過ごしたのではなく、貧しい者、虐げられた者、蔑まれた者たちと共に社会の底辺に生きたただのみすぼらしい男だった。
の一言につきる。もちろんイエスの復活を証明することなんかできない。
さらに、十字架上で死にゆくイエスが最後に叫んだ言葉はルカ福音書によれば「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」となっているが、史的イエス研究が研究しつくした結果によると、これはたぶん後から付け加えられたもので、実際にはマタイ福音書にある「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)が最後の言葉だとされている。イエスは神から見捨てられちゃったとこで死んでるわけだ。
身も蓋もない。
史的イエス研究は、現ローマ教皇であるフランシスコ神父の出身地南米で1980年代に吹き荒れたカトリックの「解放の神学」運動の礎にもなっている。当時は南米の国々自体がイエスが生きていた時代のイスラエルみたいなものであった。
スペインやポルトガルの植民地にされて搾取され、独立してもいつまでたっても庶民は豊かになれず、軍事独裁政権に支配され、恐怖と貧困と犯罪が支配する土地。それが南米の多くの国々が直面していた現実だった。解放の神学はその中で、教会という権威の砦にたて籠らずに貧しい庶民と一緒に不条理な政権と戦う、という神父たちのムーブメントで、フランシスコ神父もまさにその渦中にいたのであるが、当時のバチカンの対応は冷ややかであり、目立った活動をした神父たちは異端として排斥された。
しかし、豪華絢爛な(金ぴかの)バチカン宮殿で緋色のガウンに身を包み、神の代理人役をつつがなく務めるのがナザレの大工の息子、イエスの弟子たちの末裔の正統な役目なのだろうか?
キリスト復活の日、つまり2千年くらい前のだいたい今日くらいの日、イエスの弟子だった2人組が、エルサレムからちょっと離れたエマオという村に向けて歩いていた。それまでずっとイエスにくっついて旅をしてきたけれど、イエスは死んでしまったし、エルサレムにいると自分たちも逮捕されてしまうかもしれない。なので、とりあえずエルサレムを出てエマオに身を隠そうとしていたのだ。
イエスが処刑されるまでは救世主として崇め奉り、世直しだと意気盛んに人々に帰依を迫っていた弟子たちが、教祖(イエスは自分のことをそう呼んではいないけれど)がいなくなった途端にたいへんなビビリになって、危険なエルサレムから逃げようとしていたのである。どの口が信仰をいう? の世界である。
ところが、エマオへ向かう途上で2人の前に見知らぬ人が現れ、共に歩きながら聖書(まだ新約はないので旧約)を語った。そしてエマオに到着後、一緒に食事をしようとしてこの人がパンを裂いたとき、初めて弟子たちはこの人が復活したイエスだということに気づくのである。その瞬間、イエスは消える。
驚いた2人が急いでエルサレムに戻ると、すでに復活したイエスはペテロにも出現していて(バチカンのサン・ピエトロ寺院の名前にもなっていて、初代教皇とされる弟子ペトロは、逮捕前のイエスに「鶏の鳴く前に3度私を知らないというだろう」と予言されて実際にその通りになり、自分の情けなさに大泣きする聖書中最大のチキンである)、ペトロをはじめ、ビビリでチキンであった弟子たちはまるで人間が変わったように、死をも恐れぬイエスの教えの伝道者となって布教活動に邁進し、次々と殉教していくのだ。
・あのペテロを筆頭に、どうしようもないチキンであった弟子たちがここまで変わった。
・彼らは復活のイエスを見たと言っている。
・復活か何かはっきりとはわからないが、彼らをあそこまで変えたからには相当ショッキングな事件があったに違いない。
というのが、どうしても復活を信じられない私に信仰の師が教えてくれたことであり、この恩師の言葉が私の受洗のきっかけとなった。
私には今もって復活を合理的に説明することはできないが、私が今キリスト教徒であるということは、この弟子たちが実際に存在したということの証明でもある。というのは、仏教やイスラム教やユダヤ教と違い、キリスト教徒になるには必ずキリスト教徒による洗礼が必要であり、それはこの弟子たちから始まっているからなのだ(さらに遡るとサロメで有名な洗者ヨハネ)。
復活を信じないのは科学的法則に基づく演繹的否定であるが、復活を信じるのは歴史的事実に基づく帰納的肯定なのである。
どちらが本当に正しいのかは誰にもわからない。後世に実は間違いだったと正される科学法則などいくらでもあるし、歴史的事実なんていうもののほとんどはどちらの見方をとるかの主観にすぎない(文書が残っていても「本当のことはネットに書いてある」という人と同じで、それがフェイクである可能性は排除できない)。
さて、このイエスの復活を祝う日、イースター前夜祭のミサでフランシスコ教皇は「恐れるな」と語ったという。伝えるニュースに出典が書いてなかったのでどの聖書の個所の引用かわからないが、恐らくここではないだろうか?
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
ルカによる福音書24章36-39節
この後、イエスは十字架に磔にされたときに手にあいた釘の穴を触らせてみたりするのだが、これってまじで怖い。顔も姿も生前とは全然違って見える人が「ここに穴が開いてるから触れ」と言って手を差し出してきたら怖くないほうが不自然だろう。
現在の状況も似たようなものだ。多くの人が歴史上見たこともない獰猛なコロナ・ウィルスにより、あれだけ毎日、途方もない数の人がばたばたと死んでいくヨーロッパにあって、次は自分の番かも、自分の家族の番かもと怯えている人たちにとって、恐れは日常生活の伴走者だ。
その渦中にあってフランシスコ教皇は、「恐れるな。恐怖に身をゆだねるな」「これは希望のメッセージだ」と語るのである。
厳密に言えば、私たちが恐れているのはコロナ・ウィルスそのものではない。ウィルスにより私たちの日常生活が奪われ、私たちの生活の糧を稼ぐ仕事が奪われ、自分自身や家族や友人たちやその他の多くの人の命が奪われるかもしれない現在と将来のことだ。
つまり、私たちが昨日まで送っていた日常が消え去って、自分がまったく新しい世界にいや応なく投げ込まれてしまうということなのだ。
これってイエスの弟子たちがイエスの死のときに経験したことと同じである。
そしてフランシスコ教皇がずっと過ごした南米の国々で、軍事政権や貧困によって多くの人たちが経験してきたことでもある。
内戦や戦乱によって家や家族を失い、命からがら逃げだして難民キャンプで暮らす中東の人々が経験していることでもあり、
3.11の地震や津波で家も家族も失い、原発事故で帰る故郷さえ失った同胞の日本人が経験してきたことでもある。
つまり、今まで対岸の火事と傍観してきたことと同様のことが、自分の身に起こりつつある、ということなのである。
しかし、このような人々と同じく、そして、これから私たちを襲うことになるかもしれない境遇と同じく、神からも人々からも見捨てられどん底の最期を経験したイエスが、復活した。それを知るからこそ、フランシスコ教皇はあえて「恐れるな」というのではないだろうか?
どんな苦境にあろうと、どんなに見捨てられたと感じても、イエスは必ず復活する。そして私たちと共に歩いてくれる。だから恐怖におののいてはいけないのだと。
恐怖のどん底にあって、私たちを救うのは希望なのだと。希望こそが復活なのだと。
いつ収束するかまったくわからないコロナ禍の渦中にあって、恐れるな、私の言葉が希望である、と語る教皇の姿を見て、やはりキリスト教徒であって良かったと感じた私の三十数回目のイースターの日であった。
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