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    久美子社長が社長を辞められなかった本当の理由 〜 大塚家具騒動にみる事業継承のもう一つの問題点
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      ■久美子社長圧勝も、問題は山積
      27日に行われた大塚家具の株主総会で会社側の取締役選任案が可決され、大塚久美子社長の続投が決まり、久美子社長排除を求めた父の勝久元会長側の株主提案は否決されました。
       
      久美子社長体制を支持した株主は61%にのぼり、米ファンドや金融機関の大株主が久美子社長支持にまわりました。いっぽう元会長側提案は36%しか支持を集められず、表面的には久美子社長側の圧勝です。創業者であり、筆頭株主である勝久氏の経営方針より、コーポレートガバナンスを重視し、厳しい市場環境の中での経営改革を訴える久美子社長の経営判断に株主が期待をかけた結果でしょう。
       
      いっぽう、主要取引先であり同時に株主でもあるフランスベッドが元会長側支持にまわり、従業員持ち株会も半数が元会長側につくなど、株主総会後も、今後の経営には予断を許しません。今回は何とか勝ちましたが、売上回復も含め、久美子社長の前途にはいばらの道が待ち受けているのです。
       
      ■なぜ久美子社長は経営権争いから降りなかったのか?
      では、なぜそこまでして久美子社長は続投の意思を曲げなかったのでしょうか? 大勢の株主やマスコの前で実の父母に人格攻撃までされてもじっと耐え続ける久美子社長の経営権への執着の源泉には、もちろん会社への愛もあるのでしょうが、私にはそれ以上に「経営者を降りられない理由」があったとしか思えません。実際、2005年には11年勤めて取締役までした大塚家具を一度退職しているのですから、今回もこのように壮大な親子喧嘩で世間の晒し者になるより、静かに身を引く選択肢もあったはずです。
       
      それでも彼女が引退の道を選ばなかった理由はずばり、久美子社長が個人的に抱えている借金のためではないかと思うのです。
       
      ■長男のために会長と妻が作った「ききょう企画」
      2009年、久美子社長はいったん退職した大塚家具に社長として戻ります。それに先立つ2007年には証券取引等監視委員会からインサイダー取引が指摘されて課徴金納付命令が出されるなど社内のスキャンダルが発覚し、売上が大幅減。そこで起死回生の策として勝久元会長直々に、久美子氏が社長として呼び戻されることになるのです。
       
      このとき久美子社長が出した条件が、コーポレートガバナンス確立のための社外取締役の受け入れと、事業継承だと言われています。では、事業継承とは具体的にはどういう内容だったのでしょうか?
       
      『週刊朝日』4/3号での勝久元会長手記によると、大塚家具の持ち株会社であり、勝久元会長に次ぐ9.7%の株式をもつききょう企画の株を、久美子社長と長男以外の弟妹に分配するよう久美子社長が懇願したといいます。上場しているとはいえ、事実上の同族経営会社で事業継承するためには当然の要求だといえます。
       
      しかし、注目すべきはこの時点で、長男である勝之氏がききょう企画の株の50%をもっていたということです。5人の子供がいる中で、なぜ勝之氏だけが半数の株をもっていたのでしょうか? 答えは簡単です。長男だから。贈与も含め長い年月をかけて勝之氏に創業者勝久氏の持ち株が移譲されていたとしか思えません。
       
      私の知人や友人の中小企業経営者の中で、圧倒的に多いのが二代目、三代目の長男です。彼らは生まれたときから事業継承をするのが当たり前という環境で育てられており、会社の株式についても事業継承の一策として株式譲渡が行われます。中には産まれた直後から株式譲渡が始まったという方も少なくありません。
       
      それに対して、長男を除くその他の姉妹と弟には、便宜上多少の株の移譲はあっても、経営に影響力をもつ多数が移譲されることはまずありません。これは先代が亡くなった後に株式が分散し、兄弟姉妹で経営権を巡る紛争が起きるのを防ぐためです。日本の多くの同族企業では、このように長男だけに株式を優先的に贈与していくことにより、スムーズな事業継承をめざすスキームが常識とされてきたのです。
       
      ■負けたら借金だけが残るはずだった久美子社長
      手記の中で勝久元会長は「長男の株を久美子社長と他の弟妹に分配した」と語っています。「分配」の内容は無償か有償かの譲渡でしょう。その結果、久美子社長と弟、妹たちはききょう企画株の購入資金もしくは贈与税、あるいはその両方の多くを借入によりまかなわなければならなかったと推測されます。そしてききょう企画もまた、勝之氏から130万株の株を引き受けるために発行した社債15億円(勝久氏が引受人)の返還について勝久氏側から訴訟が起こされています。
       
      つまり、もし久美子社長が大塚家具から追放されてしまったとしたら、事業継承のために行った株の譲渡による借金だけが残り、それを返済していく資金である役員報酬が絶たれるという事態が起こる可能性が非常に高かったのです。最悪の場合、勝久氏の経営復帰により大塚家具が倒産でもすれば、資産である大塚家具株さえも紙切れになり、まさに一生かかって借金を返済するだけの日々が待っていたともいえるでしょう。これでは前回のように「後は好きにしてください」ですませられるわけがありません。まさに大塚家具と久美子社長の運命は一体なのです。
       
      ■創業者にはない事業継承者の困難
      「創業者の功績」と世間ではよく言われますが、ゼロから叩き上げの創業者は自分の責任で借金をしても、事業が軌道にのれば役員報酬や配当という名目で自分自身に還元することができます。まして上場でもすれば創業者利益は大変なものになります。日本でも屈指の大金持ちがソフトバンクの孫氏や、ユニクロの柳井氏など、創業者やほぼ創業者に近い方々で、その資産の大半が自社株であることをみても、成功した創業者がいかに自己保有株による恩恵を受けているかがわかるでしょう。
       
      逆に、同族の事業継承者の場合は、まず、先代がもつ株式を手に入れるところから始めなければなりません。確かに会社という資産はありますが、経営は生き物ですので、創業から数十年もたてばビジネスモデルもあちこちがさびついてきますし、創業者の強烈なリーダーシップに依拠してきた会社が多いことからも、今後何十年も安泰とは誰にもいえません。
       
      その中で、創業時より大幅に価値が上がってしまった株の取得にはどの事業継承者も頭を悩ませますし、下手をすれば自分自身の収入の大半を株の譲渡にかかる費用(株式購入資金や贈与税、相続税など)に当てる必要も出てきます。全財産をはたいても払えきれずに借入に頼らなければならないケースも決して少なくありません。
       
      特に今回の大塚家具のように、最初から事業継承者としていろいろな便宜がはかられてきた長男ではなく、久美子社長のように中年にさしかかってから事業継承者として指名された場合、継承にあてられる長い時間というメリットを享受することができず、莫大な借金を負ってしまうケースも十分あり得るのです。
       
      また、今年から相続税の税率改正や控除の減額など、事業継承にかかる税負担が大幅に引き上げられていることから、今後、さまざまな中小企業で事業継承の資金が捻出できず、廃業を与儀なくされる会社も出てくるのではないかと危惧しています。
       
      ■長男だけではない事業継者に対する早期事業継承の必要性
      今回の大塚家具騒動では、久美子社長が金融機関で経験を積んでいたこともあり、社長復帰時点からさまざまな対策を講じたことで、もし勝久元会長との深刻な対立がなかったとしたらそれほど大きい問題なく事業継承できるはずでした。しかし、同時に「もともと想定されていなかった継承者」が事業継承をするにあたり、どれほど周到な事業継承対策を行わなければならないかが露呈したと思います。
       
      以前の記事にも書きましたが、女性の場合は特に、もともと事業継承を期待されていなかったのに、ある日突然継承者に指名され、準備に時間をかけられない、というケースが多々あります。
       
      折しも、前出の『週刊朝日』の大学合格者高校ランキングでは、早稲田大学商学部合格者のトップが、東京の豊島岡女子学園と報道されていました。早大商学部は伝統的に中小企業後継者の学生が多く、三代目である私の父も、二代目である大叔父たちもここの出身です。以前は女子学生はほんの一握りでしたが、少子化の流れの中で中小企業の女性継承者をめざす学生も増えてきているのはないかと思います。
       
      そのような状況の中で、従来のような「長男に経営資源を集中する」という慣習に決別し、「男女を問わず、経営者としての資質が高い子供にできるだけ早いうちから事業継承の教育と対策を行う」という経営者の意識の転換が、今回のような親子の深刻な対立という悲劇を避け、従業員の雇用を守り、ひいては日本経済を発展させる方策となるのではないでしょうか?
       
      その意味で、中小企業経営者に対する事業継承に対するさらなる教育や啓蒙が望まれると思います。
       
      | Yuriko Goto | 企業経営 | 13:40 | - | - |
      故リー・クワン・ユーシンガポール初代首相にみる偉大なリーダーの条件
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        JUGEMテーマ:シンガポール
        シンガポール建国の祖、初代首相リー・クワン・ユー氏(91)が23日、亡くなりました。
         
        リー・クワン・ユー元首相は今年に入ってから体調悪化が伝えられていましたので、ほとんどの国民にとっては「想定内」であり、訃報を受けても大きな混乱はありません。しかし、昨日まで遺体が安置されていた大統領府には弔問に訪れる人々が8時間待ちの長蛇の列を作り、あちこちに設けられた弔問所にも最後のお別れをするために大勢の人々が集まるなど、改めてこの指導者に寄せるシンガポール人の思慕の情の深さを思い知らされます。
         
        海外ではシンガポールをアジア随一の豊かな国にした経済政策ばかりが評価されているきらいがありますが、連日この地で報道される、テレビやラジオ、新聞、ネットメディアなどの追悼特集では、彼のまた違った一面がみえてきます。特に彼を直接知るさまざまな人々の証言から、リー元首相のリーダーとしての素晴らしい資質が浮かび上がってきますので、その一部をお伝えしたいと思います。
         
        ■逆境の中でも新しい試みに挑戦し続け、決してあきらめない。
        第二次世界大戦後、シンガポールは大変な貧困の中で復興のスタートを切ります。イギリス植民地支配から解放され、マレーシア連邦に加盟したものの政治家リー・クワン・ユーの台頭を恐れたマレーシア政府から分離独立を迫られ、リー元首相もシンガポール住民も望まないまま、半ば強制的にマレーシアからの独立させられたのです。
         
        当時のシンガポールの人口は200万人弱。土地も資源もないのに失業率は10%を超え、人々は劣悪な住環境の中でひしめき合って暮らしていました。識字率は低く、8割以上の人が高等教育を受けられず、平均寿命も60歳代でした。当時の他の多くの発展途上国と同じく、山積した課題を抱えてのスタートでした。
         
        しかし、これらに加えシンガポールにとって致命的な悪条件は「水がない」ことでした。マレーシアからの水の補給源であるジョホール水道だけがシンガポールの生命線で、生殺与奪の権利を事実上の敵国に握られていたのです。
         
        リー元首相は逆境の中、シンガポール版ニューディール政策とも呼べる公団住宅建設や、「クリーン&グリーン」を標語に緑化を促進しゴミのぽい捨てなどを徹底的に罰金で取り締まる政策、工業団地を設置して重点的に製造業やサービス業などを政府主導で育成していく政策、政府主導で厳格にコントロールする金融政策などを、他に類を見ない強烈なリーダーシップで推進していきます。
         
        その成果の一つが、悲願であった水のリサイクル施設でした。2002年、下水を浄化して作られた「NEWater」と名付けられた水道水を、カメラの前で嬉しそうに飲むリー元首相の映像が今も私の頭の中に鮮烈に焼ついていますが、このときほどリー元首相の執念を感じた瞬間はありませんでした。決して諦めなかったからこそ、達成することのできた成果だと思います。
         
        ■失敗を認め、素早く方針転換を行う。
        もちろんリー元首相の政策がすべて成功したわけではありません。建国初期には増え続ける人口増加を抑制するため「2人っ子」政策を採用しましたものの、その後極端な人口減少が問題となり、結果的に多くの移民や外国人労働者を受け入れざるを得なくなりました。
         
        政府主導で中国での経済開発も非常に早期から行っていましたが、失敗だったと厳しい評価を下され大赤字を出した蘇州工業団地のような例もあります。また、近年は移民や外国人労働者の受け入れにより国民の職が奪われているという不満が、前回の選挙では歴史的な与党議席減につながりました(といっても第一党の地位は揺るぎませんが)。
         
        その中で、リー元首相と彼が率いてきた政党PAPPeople’s Action Party)はこれらの失敗を正面から受け止め、その都度修正して時代に即した政策転換を行ってきました。「シンガポール人は従順で政府の命令に何でも従う」というまことしやかな論を展開する方もいらっしゃるようですが、実際にこの国で暮らしている私の体感とは大きく異なります。
         
        現在、シンガポール建国50周年の一環として政府がスポンサーとなってICONS OF SGというキャンペーンが行われています。このキャンペーンで使われている「何が私たちをシンガポール人にしているか」というテーマのシールには、マーライオンやドリアンなどのシンガポール名物以外に、ERP(車の交通量をコントロールするための課金制度)やNS(徴兵制の軍隊)など政治的なテーマも入っています。思わず笑ってしまったのは「Complain King」(不平不満王)という一枚が入っていたことです。
         
        シンガポール人は従順どころか、しょっちゅう政府や政策への不平不満を口にします。ジョークの形で表現することも多いのですが、新聞の投書欄への投稿はもとより、役所への電話、SNSやブログへの書きこみも日常茶飯事です(ただし根も葉もないことを書くと逆に政府から訴えられて巨額の賠償金を請求されるケースもあるので要注意)。
         
        私がシンガポールのシステムで特に感心したのは、各選挙区の議員に住民が直接会ってComplainできる日が定められていることです。我が家でも夫がこの制度を利用したことがあり、役所の対応に非常に困っていると議員に説明したところ、翌週から手続きがすぐに改善されたのには驚きました。
         
        このような制度を設けていることからもわかるように、リー元首相の作ってきた政府は決して国民が唯々諾々と従うだけの強圧的で独裁的なものではなく、政策の失敗を国民が感じればフィードバックが行われ、それをまた政府が新たな政策に反映していくというシステムの元に成立しているのです。その意味では、むしろ謙虚とさえいえると思います。
         
        リー元首相と長く仕事をしてきた同僚によれば、彼は決して「イエスマン」を好まなかったといいます。ただ彼に忠実なだけでは別の意見を聞くことができず、有用でない、と判断されたからだそうです。例え自分の意に沿わなくても他人の批判に耳を傾け、自らの失敗を素直に認めてよりよい方向に向かって行動を起こせることも、リーダーには不可欠な条件です。
         
        ■現実的に、合理的に物事を考え、行動する。
        日本でもCMなどに使用されて有名な、船の形をした建造物が載っているホテル、マリーナ・ベイ・サンズは、セントーサ島にあるリゾートワールドと並び、カジノがあることで有名です。カジノを呼び物に、中国人を筆頭に、世界各地からギャンブル目当ての観光客を呼び寄せています。
         
        質素倹約を美徳とし、景気が良くても次の不景気に備えて贅沢を戒め、「カジノは嫌いだ。生きているうちは(カジノ解禁は)絶対にない」と公言してきたリー元首相がカジノ誘致に踏み切ったのは、現実問題として一定層の観光客を呼び込むためにやむをえない選択だったのでしょう(観光客は無料ですが、シンガポール人からは高額の入場料を徴収するなど、国民のギャンブル依存症を防ぐための一定の対策はとられています)。
         
        しかし、彼はただカジノを作っただけではありませんでした。マリーナ・ベイ・サンズの真向いには、シンガポールが誇る世界最大規模の植物園、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイを建設し、ほぼ同時期にオープンさせています。この施設はシンガポール国民に対する緑化教育の目的が強い一面もありますが、現在売り出し中の観光スポットの一つであり、マリーナ・ベイ・サンズからブリッジを渡って直接歩いて行ける距離であり、カジノを訪れた人々の多くがこの植物園を訪れています。そしてさらにここから足を伸ばすと、リー元首相ご自慢の浄水場まで歩いて行くことができるのです。
         
        不本意ながらも観光振興のためにカジノを建設する、という現実的な選択の裏には、お気に入りの政策である緑化事業や水事業を外国人にアピールするという合理的な目的も隠れていました。このように、理想主義やイデオロギーに固執するだけでなく、臨機応変に現実的な対応ができるところも、彼のリーダーとしての優れた特質であったと思います。
         
        ■伝える努力を惜しまない。
        リー元首相は演説の人です。
         
        若いときはどちらかというと高めの声で、ある程度の年齢になってからは声が低くなり少し抑制された非常に美しい英語で、はっきりとわかりやすく、平易な言葉で演説をしてきました。彼自身は英語を話す華人の家庭に育ち、イギリスのケンブリッジ大学を卒業した生粋のイングリッシュ・スピーカーでしたが、マレー語はもともと話せたようです。しかしそれに満足することなく、マレー語の学習もたいへん熱心にしていたそうで、マラヤ連邦の頃のマレー語演説も立派なものです。
         
        追悼特集で初めて知って驚いたのは、彼が中国語(標準北京語)を30歳を過ぎてから努力して習得したという事実です。当時すでに多忙な政治家としてのスタートを切っていたのにもかかわらず、シンガポール住民の多数を占め、英語もマレー語も話さない華人の人々に訴えたいという一念のため、彼にとってはまったく縁のない言葉である中国語(標準北京語ですので広東省出身の彼の家系では話す人はいなかったはずです)を学び、演説をするまでになったのです(中国語は90歳を過ぎたつい最近まで、家庭教師について継続的に学んでいたそうです)。
         
        リー元首相の演説を聞いていると、それを聞く人の立場に立ち、一言一言を理解してもらえるよう、細心の注意を払って話しているのがよくわかります。欧米や中国の高名な政治家にありがちな、難しい語彙や格言を使うこともなく、ダイレクトに聴衆の琴線に触れるような語りかたもまた、優れたリーダーに不可欠の資質だと思います。
         
        ■原理原則に忠実に、細部を疎かにしない。
        「クリーン&グリーン」政策でのエピソードにはリー元首相の人柄を表す、くすっと笑ってしまうようなエピソードが多くあります。
         
        まだ政策が始まったばかりの頃、「トイレをきれいに使おう」というキャンペーン中のこと(20年ほど前には「トイレを使って水を流さなかったら罰金」という法律が実際にありました)、役所のトイレを使ったリー元首相が真青になって戻ってきたというエピソードがあります。あまりにもトイレが汚かったのでショックを受けたというのです。妻のクア・ゲオ・チュー女史に「まだキャンペーンは始まったばかりなのだからもう少し長い目でみたら」となだめられて平静を取り戻したそうです。
         
        また、シンガポールには一定の高さ以上の木を切るときには、例え自分の家の敷地内でも政府の許可を取らなければならないという法律がありますが、これも緑化政策に一生をかけて取り組んできたリー元首相の執念の成果です。あるとき、大統領府の敷地内に植えられた樹木の一部を防犯上の理由から伐採することが検討されていたそうです。これを聞きつけたリー元首相は激怒し、他の可能性をいろいろと指摘して最終的には伐採計画は流れました。
         
        「本質は細部に宿る」と言われますが、このように、単に法律を作るだけで満足するのではなく、それがどのように実行されているのか、問題はないかを常にチェックし、細部にわたってこだわりぬいたのも指導者リー元首相の真骨頂でしょう。
         
        ■自分の利益のためにではなく、他者のために働く
        リー元首相の多くの演説は「Friends and fellow Singaporeans(友人たちと仲間のシンガポール人たち)」で始まります。
         
        常に彼の言葉から発せられていたメッセージはシンガポールに暮らす人々と同じ目線に立ち、共に国を作っていくことでした。彼にとってはシンガポールは「国家」ではなく、そこに暮らす人々のための場所であり、その環境を良くしていくことこそが使命であると考えていたのです。
         
        人々に質素倹約を常に説いていたリー元首相の生活もまた質素なものでした。着ているものはたいてい同じよれよれのシャツ。自宅も大多数の国民が住んでいるHDBの一室とほとんど変わらない、飾り気のない質素な住居でした。執務中の昼食や夕食は、毎日決まった簡単なものを食べていたそうですし、中国の東北地方に公務ででかけたときには、もったいないからとオーバーコートとブーツを買わずに借りてすませたそうです。
         
        シンガポールの政治家や政府高官に対する高額の報酬は、じゅうぶんな報酬を与えて汚職をさせない目的で設定されたものです。発展途上国にはつきものの汚職を徹底的に取り締まった結果、シンガポールは世界でも類をみないクリーンな国家となり、汚職による政治不信もほぼなくなりました。これを建国のごく早期から行えたのはやはり、リー元首相が私利私欲に決して走らず、それを同じ政治家たちや国民に美徳として繰り返し訴え続けたからだと思います。
         
        ■よき理解者である伴侶をもつ。
        リー元首相の妻、クワ・ゲック・チュー女史はリー元首相より3歳年上。シンガポールのラッフルズ・カレッジではリー元首相とトップを競い合う才媛で、2人そろってのイギリス留学中に結婚。結婚後はファーストレディーとしての公務以外は子育てに専念し、滅多に表舞台には出てきませんでしたが、リー元首相の政治判断に対し、非常に重要な助言を与えていたと言われています。側近がみていても「よくこれだけ話すことがあるな」と感心するほど2人は常に会話を欠かしませんでした。
         
        「翌日にリーおじさんの発言が変わっているときは、だいたい家で奥さんに直すように言われたからだよ」と友人のシンガポール人が冗談まじりに話していましたが、国民からも思慮深く、聡明な首相の妻として尊敬されていました。
         
        リー元首相が50年以上の長期間にわたって第一線の政治家でいられたのも、また、長男であるリー・シェンロン首相が、リー・クワン・ユー元首相と同じく、国民からの絶大な支持を得ているのも、彼女の存在あっての結果なのではないでしょうか。
         
        彼女が病に倒れてから亡くなるまでの数年間、献身的に介護にあたる彼の姿は多くの人を感動させました。2010年に彼女が亡くなってから、リー元首相の姿が以前にもまして老けこんだのは、傍目でみていても痛ましいものでした。心の隙間を埋めるためか、家中の壁を彼女の写真で飾ったそうです。
         

        Without her, I would be a different man, with a different life.  She devoted herself to me and our children.  She was always there when I needed her.”
        「彼女がいなかったら、私は違った人間になり、違った人生を生きていただろう。彼女は私と子供たちにすべてを捧げてくれた。私が必要なとき、彼女はいつもそこにいてくれた」

         
        フルスピードの人生をシンガポールの人々のために捧げた2人が、安らかに眠られますよう、お祈りしています。
         
        | Yuriko Goto | シンガポール社会 | 01:04 | - | - |
        「出戻り」転職のススメ
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          ■転職したい気持ちは止められない。
          6年ほど前に自主退職した社員から「戻って働きたい」と連絡があり、再入社が決まりました。我が社は社員、パート社員など全員合わせても30名程度の小企業ですが、この社員を入れて再入社の社員が3名になり、約1割がいったん会社を辞めて「出戻った」ことになります。そのうち1人は2年前に定年を迎えましたが、継続雇用で元気に働いてくれており、私も「あなたは大切な社員。きつくなったらフルタイムでなくてもいいから、とにかく体が動かなくなるまでうちで働いてほしい」と声をかけています。
           
          私はこれまでリストラを実施したことはなく、また「どんなに経営が苦しくても絶対にリストラはしない」と公言していますが、残念ながらそれでも毎年、数人の自主退職者が出ます。パート社員の場合は介護や子供の問題など家庭の事情が多くやむを得ないケースもあります。しかし、20代では「自分の居場所はここではないかもしれない」「もっと違う会社で自分の能力を活かせるのでは」と考えて自主退職する人が大半です。特に新卒で就職した場合は2〜3年して仕事に慣れてくると、「もっと他の世界もみてみたい」という欲求がむくむくと頭をもたげてくるようです。
           
          私自身も若いときには転職を経験したことがありますので、20代の社員が「辞めたい」と言うとき、無理に引き止めません。彼らの気持ちがよくわかるからです(ただし入社3年未満の場合は「石の上にも3年」でとにかく3年は頑張りなさい、と叱咤激励します)。経営者として大切に育ててきた得難い人材を失うのはつらいです。しかし、社員が自分の可能性を信じ、未知の世界に飛びこんでいきたいと思う気持ちを、いくら経営者だからといって無理やり抑えつけることは違うと考えるのです。
           
          ■「次の転職」を考える際に入れたい「元の会社に再就職」の選択肢
          ただ、だからといって次から次へと転職をすればいい、と薦める気持ちは毛頭ありません。以前の記事にも書きましたが、一、二度転職を経験するのはよいとしても、何度も短期間で転職を繰り返す人になってしまうと今度はいろいろな弊害が生じてきます。
           
          そこで選択肢の一つとして考えたいのが「出戻り」転職です。新天地を求めて転職をしたけれど、どうも自分の求めていたものと違う、と感じたら、新たな会社を探す前にまず、以前の会社に再就職することを検討してみたらどうでしょうか?
           
          ■「出戻り」転職のメリットはこんなにある。
          「出戻り」転職のメリットは、たくさんあります。
           
          ・仕事の内容をよくわかっているので、新しい仕事をゼロから覚えるより楽。
          ・以前働いていた経験があるので、経験がない人より給料など待遇が有利になる場合が多い。
          ・職場の人間関係を把握しているので、人間関係を新たに構築するストレスがない。
           
          逆に、職場の人間関係がもとで辞めた人は、違う部署に変えてもらえるか事前に聞き希望をききいれてもらうことも可能でしょう。在職時は難しかったとしても数年たって別の部門で空きが出ているかもしれませんし、人事担当も在職中の社員を異動させるより、新たに雇い入れた人を希望の部署に配属するほうがずっと容易なのです。
           
          ■会社にとっても「出戻り」社員は大歓迎。
          もちろん会社にとっても「出戻り」社員を採用するメリットは計り知れません。
           
          会社を離れていた数年間で多少仕事内容は変わっているかもしれませんが、何もわからない新人を雇ってゼロから教えることを考えたら、出戻り社員は即戦力になり、教育コストを抑えられます。また、本人の性格をみなよくわかっているので、人間関係の摩擦が起きる可能性が低くなります。
           
          しかし最大のメリットは、一度は辞めた会社に戻ってきてくれた、と、経営者だけでなく同僚社員の気持ちが出戻り社員を温かく迎え入れる方向に向き、社内のチームワークが強化されることです。ずっと職場に残っている社員たちは「外の世界をみてきたけれど、やっぱりうちの会社が一番いいと思ったから戻ってきてくれたんだな」と感じますし、戻った本人も「今度こそは長く勤めよう」と決意も新たに仕事に励んでくれるのです。
           
          ■辞めた社員とよい関係を維持するために
          完璧な人間がいないように、世の中には完璧な会社などありません。どんな会社も長所や短所をもっています。しかし、それを経営者も社員も互いに認め、長所を伸ばして短所をできるだけ少なくするよう努力していくことが、よい会社を作っていくためには必要です。
           
          その意味で、別の会社で経験を積み、新しい知識や方法を学んできてくれた「出戻り社員」は会社にとって得難い人材です。また、我が社では出戻り社員に限らず、退職した社員にも外注で仕事をお願いしたり、逆に退職した社員が新たに就職した会社から仕事を依頼されたりするケースもあります。このように、社員が辞めることは決してマイナスだけでなく、プラスの面もあるのです。ですから、我が社では私も社員も、ときどき辞めた社員と連絡を取り合って情報交換をしています。
           
          ■会社をきちんと辞めれば「出戻り」就職も容易に
          中小企業では「出戻り」就職はそう珍しいことではないと思いますが、私の友人の中には一度大企業を辞めて転職し、数年後に出戻って再就職した、という人もいます。「出戻り社員」に対する抵抗が一般的に少ないのは事実ですので、「辞めた会社に連絡して求人がないか聞くのはずうずうしいと思われるかも・・・」と躊躇する必要はまったくありません。また、その時は募集がなかったとしても、人事担当者に伝えておけば、空きができたときにきっと真っ先に連絡をくれるでしょう。
           
          ただ、気をつけたいのは、いい辞め方をしないとその会社と再度よい関係を築くことは難しい、という点です。就業規則に則ってきちんと引継ぎをし、同僚から「次の職場でもがんばってね!」と温かい励ましを受けて辞めた人ならば、「再就職したいけれど空きはありますか?」と元の会社に電話をかけることに心理的な抵抗は少ないでしょう。しかし、そうでない場合は、「あの人の顔は二度と見たくない」と元同僚たちから思われている可能性もなくはありません。
           
          社会人として最低のルールですので言わずもがなですが、退職の際は大人らしくきちんと残務処理や引継ぎをしてから退職することが、もしもの時に「出戻り転職」も選択肢の一つに入れられる最低条件です。
           
          | Yuriko Goto | 転職 | 16:20 | - | - |
          女性社長の会社はつぶれない!?――アジアのパワー・ビジネス・ウーマンに選ばれたユーシン精機 小谷眞由美社長の経営手腕
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            経済誌『フォーブス・アジア版』の「2015年アジアのパワー・ビジネス・ウーマン」に日本からユーシン精機の小谷眞由美社長(68歳)とエステー化学の鈴木貴子社長(52歳)が選ばれました。
             
            鈴木社長は取締役9人中女性4人というジェンダー・ダイバーシティ経営が評価されたようですが、ユーシン精機の小谷眞由美社長は2P にわたるインタビューつき、順番も2番目という超VIP扱い。売上高180億円、射出成型機の取り出しロボット製造業という、どちらかというと地味な京都の企業の社長がこれほど高く評価された理由は何か非常に興味がわきました。
             
            ■海外販売比率70%と競合他社を大きく凌ぐ営業利益率
            株式会社ユーシン精機は1973年、資本金わずか400万円で眞由美社長の夫である故小谷進氏が設立。海外志向は早い時期からあったようで、1988年には初めての現地法人をアメリカに作っています。
             
            事業は順調に発展し、1990年には眞由美氏が営業担当副社長に就任。国内はもとより海外にも駐在員事務所や営業所を矢継ぎ早に開設して業務を拡大していきます。1996年には大阪証券所、京都証券所に上場。1998年には韓国、中国(上海)、台湾、オランダ、2001年にはマレーシア、フィリピン、タイ、シンガポールに事務所や現地法人設立と、国内はもとより怒涛の海外進出をし、1999年には東証1部にも上場を果たしました。
             
            亡くなった進氏の跡を継いで2002年に眞由美氏が社長に就任。しかし進出のスピードはまったく落ちず、アジアと欧米の拠点を着々と増やしていった結果、現在では輸出販売比率が約70%まで増加。コスト競争力もずば抜けて高く、営業利益は競合他社を約2/3上回るとのこと。まさに「超」がつくアグレッシブな経営と呼べると思います。
             
            ■驚異の自己資本比率84
            四季報データを見てさらに驚きました。販売や研究開発に大きな投資をしているのに、有利子負債(借入金や社債などの借金)がまったくなく、何と自己資本比率が84.2%もあります。
             
            自己資本比率というのは、借入金などを除く自己資本が資本全体に占める割合のことですが、通常、40%程度以上あれば倒産しにくい優良会社とみなされます。株式はその会社が倒産したら紙屑になっていまいますので、投資家は必ず自己資本比率をチェックします。
             
            上場企業の自己資本比率の平均は50%程度。製造業の場合は研究開発や設備投資に借り入れや社債発行が必要とされることが多く、日本企業の代名詞、あのトヨタ自動車でも35.3%にとどまっています。同じ京都で「カリスマ経営者」稲盛和夫氏が創業した京セラでさえ72.5%ですので、この数字がずば抜けて高いことがわかるでしょう。その秘密はやはり有利子負債ゼロの無借金経営にあると思います。
             
            ■経常利益20%に迫るも利益の大半は内部留保に
            インタビューによると、ユーシン精機は過去5年間で平均10%程度で右肩上がりの増収をキープしてきたといいます。利益も巡業に伸び、四季報を見ると経常利益率は
             
            2010年 7
            2011年 8.4
            2012年 8.9
            2013年 11.9
            2014年 17.3
            2015年(予想) 17.9%  ※すべて3月、連結決算 
             
            と、右肩上がりで上がっていますが、これだけの優良企業なのに配当性向(最終利益のうちどれだけ株主に還元するかの指標)は2014年で27.7%とそれほど高くありません(京セラ49.6%、トヨタ28.7%)。当然、利益余剰金は内部留保となり、キャッシュフローをみると借入ゼロにもかかわらず、現金などが75億円もあります。従業員が600名程度ですので、仮に平均年収500万円として計算すると年間給与30億円。万が一売上ゼロになったとしても、2年以上給料を払い続けることができる体力です。
             
            株主構成は家族の持ち株会社と小谷社長、やはりユーシン精機に入社している2人のお嬢さんの3人をあわせると46%、銀行などの安定株主を含めれば約70%が特定株主ですので買収の可能性もまず考えられません。まさに盤石の体制です。
             
            ここまで見てきて、ユーシン精機に対するフォーブス誌の高いランク付けはやはり、猛攻勢をかける海外販路開拓、徹底したコストダウンという攻めのポジションと、堅実かつつけ入る隙がない財務体制への評価ではないかと感じました。
             
            ■女性社長ならではの攻めと守りの絶妙なバランス
            以前、私の会社の社員から聞いた話ですが、入社面接の前に家族に相談したら「女社長の会社は大変だから就職しないほうがいい」と言われたそうです。女性が社長の場合、コスト管理や業務管理などが細かく、いろいろ口を出されてうるさいので大変だ、という意味だったそうです。
             
            これは真実で、中小企業の女性社長には堅実経営タイプが多く、できるだけ無駄遣いを抑えてコストを下げようとする傾向が強いと思います。支出を抑えるという意味では間違っていませんが、思い切って積極的な投資をしなくてはならない局面で踏ん切りがつかず、せっかくのビジネスチャンスを逃してしまう、という残念なケースもときおり見受けられます。
             
            いっぽう男性が社長の場合は、少し余裕ができると付き合いと称して会社の経費で飲み歩いたり、放漫経営や無謀な投資によりこつこつと築いてきた資産を失ってしまったり、事業が軌道にのると本業以外のことにうつつを抜かしている間にライバルにシェアを奪われたりする例が散見されます。
             
            小谷社長の場合は女性社長に不足しがちな決断力に富み、販路開拓や研究開発費などの思いきった投資を惜しまない「攻め」と、比較的女性社長が得意な、利益率に徹底的にこだわり、同時に練りに練られた財務計画により後顧の憂いなき経営体制を固める、という「守り」が微妙にバランスされた経営手腕が見事というほかありません。
             
            インタビューの中で小谷社長の「青い手帳」というエピソードが紹介されています。小谷社長がどこに行くにも持って歩き、飛行機や電車の中で何度となく読み返すというこの手帳には、「財務、給与、不良発生時の補償費、社員の子供の名前、海外駐在社員の駐在年数」などが直筆の文字でびっしりと書かれているそうです。細部に常にこだわりつつ、会社の大きな経営方針を練って実行していく、というのはやはり女性社長だからこそできることでしょう。
             
            2020年までに女性管理職30%目標実現にはもっと女性に対する教育が必要
            アベノミクスの女性活用政策の大きなターゲットの一つが、「2020年までに女性管理職を30%に」です。小谷社長はこのテーマを振られると「政策もよいがまず必要なのは教育」と切り返します。
             
            「私は両親や祖父母から常に、人のためになることをしなさい、リーダーとなりなさい、自分から何かをしなさいと言われてきました」と語る小谷社長はまた、2人のお嬢さんたちも同じ教育方針で育ててきたようです。2人ともアメリカと英国でMBAを取得し、1人は日本の大学で工学博士号を取得しています。
             
            前回も書きましたが、中小企業で女性が後継者になる場合、幼い頃から経営者としての教育を受けてきたケースより、突然指名されて後継者になるケースが多くみられます。その結果、親子間や社員との軋轢が生じ、どう対処していいかわからず、頼る人もおらずに悶々と悩む方も多いのが現状です。
             
            小谷社長のように現場の実践で鍛えてこられた本物の女性経営者たちがロールモデルとなり、後進の女性たちを指導して引っ張っていくような学びの機会がもっともっと増えれば、女性管理職30%目標達成も夢ではないと思います。
             
            余談になりますが、この特集のトップで紹介されていたのは、インドネシアでブルーバード社を率いるノニ・プルノモ氏(45才)でした。彼女もやはり女性らしいきめ細かい社員教育で会社を大きく育てた人物です。ジャカルタでいろいろな人から「タクシーはブルーバード」と薦められ、実際に空港でもタクシー乗り場で「ブルーバードレーン」と「その他タクシーレーン」に分かれていたことを思い出しました。
            | Yuriko Goto | 企業経営 | 19:50 | comments(0) | - |
            ブログというメディアで情報発信するということ
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              前回シンガポールの公団住宅政策について書いた記事について、シンガポール事情をご自身のブログで書いていらっしゃるブロガーの方から「事実誤認多数」とツィートでご批判を受けました。
               
              この方によると私のブログ記事の問題は、
              • 出典を明記しない
              • 一部事例や自分の身の回りの事象を一般化する
              2点だそうです。
               
              指摘されてこの方のブログを拝見しましたが、確かにほぼすべての文章に出典が付記されており、一般事例や自分の身の回りの事象のことにもほとんど触れられていませんでした。
               
              (ただ「シンガポールのスーパー明治屋は在住日本人の生活に欠かせず、日本人であれば必ず使う」というご本人の身の回りの事象とおぼしきものが記載されている記事がありました。シンガポール永住者の多数派であるとこの方が定義されているシンガポール人配偶者の私はシンガポール在住5年ですが、どうしても日本から持ち込めなかったパイプクリーナを買うための1回以外、ここで買い物をしたことはありませんし、同じ背景の日本人女性たちと食材の話をしても頻繁に明治屋に通っているという話はやはり聞いたことがありません)
               
              ■ブログというメディアはどこまで信頼できるのか?
              私は若い頃、広告出版業界で仕事をしていたことがあります。
               
              当時の広告業界ではコピーライターがまず原稿を作り、それをたたき台にディレクターとクライアントの2者がその文章を徹底的に検証する、という作業が一般的な仕事のやり方でした。「消費者がこの文章を読んでその商品を購入したくなるか」はもちろん、確実なデータの裏付けがない「一番」や「これまでにない」に類する曖昧な表現、消費者を不快にする文言はご法度で、徹底的にチェックされました。それでもときどき広告がバッシングを受け取りやめになる事件は起こることはご存じの通りです。
               
              出版社の場合、基本は編集者と二人三脚でした。編集歴数十年のプロの編集者の方が担当についてくださると「てにをは」や誤字脱字などの文章表現はもちろん、インタビューの書き起こし記事では根掘り葉掘り文脈を読み込まれ、取材時のテープを何回も聞き直したりすることは日常茶飯事でしたし、場合によっては図書館に一日籠って孫引きの文の出典を当たることもありました(当時はインターネットで何でも即座に調べられる環境でなかったので、この作業には実に時間をとられました)。また、担当編集者以外の編集責任者からダメ出しをされることもありましたし、雑誌の場合は、校正時に編集部全員で記事を回し読みして確認するのが通例でしたので、担当編集者からOKをもらっても気を抜けなかったことを覚えています。
               
              今回も一点だけ、「ベーシックインカム」という言葉を私が完全に誤認していた箇所があり、この方に指摘されて訂正しましたが、昔のように第三者が客観的な目で記事チェックをしていてくれたらこのミスはなかったな、と懐かしく思い出した次第です。第三者のチェックなしでそのままインターネットというメディアに乗ってしまう個人ブログというメディアには常にこのように正確性に対する不安要素が伴うということを、私も含めブログ読者は知っておくべきだと思います。もちろん、間違いをご指摘いただいた場合、感謝して訂正させていただいています。
               
              ■出典明記は常に必要か?
              私がこのブログを書き始めたときには、実は引用についてはほぼすべて出典を明記するかリンクを貼っていました。しかし、当時掲載していたサイトの方から「出典紹介が多すぎて読者の思考の流れが中断されてしまう」という指摘を受け、どうしても必要な重要な根拠になる出典以外は省くようになりました。
               
              適当な記事を書きたくありませんので、出典は必ずすべて確認していますし、時間の許す限り、統計データなどは原文の1次資料を当たるよう心がけています。ただ、やはり学術論文や公的資料ではありませんので、出典をすべて書くことは控えています。
               
              今回ご指摘があったアメリカ、香港、シンガポールのジニ係数のデータはこちらのブログを参考にさせていただきました。ブロガーの舞田さんは研究者だけあって非常に正確な情報を発信されている方なのでときどき使わせていただいています。しかし、この順位を「事実誤認」とされたブロガーの方はCIAの資料をお使いになっており、順位が違うと批判されていますが、この方が参考にされたとおぼしきWikipediaの資料をみても 各国の調査年度がばらばらで、為替やときどきの経済状況により大幅に値が変動しますので、厳密に順位づけをすることはあまり意味がないと考えられます。
               
              私がこの記事で言いたかったのは、シンガポールは格差社会として指摘されるアメリカや香港とほぼ並んでジニ係数が非常に高く貧富の差が大きい社会ですよ、ということですので、出典や調査年度を詳述する必要は特に感じていません。
               
              ■表現に完全な「正しい」はない
              この方のご指摘によると、「メンテナンスはすべてHDBがしてくれますので、補修の心配もありません」という文と、「隣国のマレーシアやインドネシアで時折発生する民族同士の対立がまったくなく」という表現は正確でないので「事実誤認」だそうです。
               
              まずHDBフラットのメンテナンスです。
               
              私の住むマンションはHDBではなくプライベートのため住民による管理委員会があります。我が家では夫が積極的に参加していますが、築10年程度なのに雨漏りがひどかったり、外壁の塗り替えがあったり、植木やプールの手入れをする会社や管理会社の評価や選定など雑事が非常に多く、本当に大変です。また、維持・修繕のための月々の積立金や管理費も馬鹿になりません(日本でも分譲マンションの住民は同様でしょう)。
               
              こういう金銭的、時間的、精神的負担がないHDBは住民に負担が少ない、という意味で書いた文でしたが、この方は「外部の補修はしなくてもよいが、室内の配管は自分でメンテナンスしなくてはならないので書くべき」というスタンスだそうです。わからなくもないですが、賃貸ではなく購入物件ですのでトイレの配管の詰りや、水道のパッキン交換、室内の壁の塗り替えもすべてHDB任せという風に理解される読者はまさかいないと思います。
               
              民族同士の対立については、表立ってはないが、仲間内などで多民族の悪口を言うこともあるのでゼロではない、というお考えだそうです。
               
              もちろん軽口で「○○人はこれだから嫌だ」という人も皆無ではありませんが、シンガポール人と話していているとこのような発言が非常に少ないことは事実です。
               
              また、「隣国のマレーシアやインドネシアで時折発生する」と書きましたが、1998年にジャカルタで中国人をターゲットにした暴動が起きたときは「中国人に間違われないために掌に日の丸を書いてよく見えるように手を振りながら道を歩いた」という話を友人のビジネスマンから冗談まじりに聞いたこともあるくらい、これらの地域では民族間の緊張が爆発的に高まることがあるのです。シンガポールでHDB政策が軌道にのってからこれに類する深刻な民族間対立が起こった、という事実はありませんし、シンガポール人に「国民の中に民族の対立ってあるの?」と聞いても即座に否定されることでしょう。
               
              このような問題をどこまで詳細に、どこまで「〜ということはあるけれど、一般的には〜」という表現をするかは、第三者から指摘されることでなく、ブログを執筆する本人に委ねられるべきであると私は考えます。
               
              ■公開資料だけでは見えてこない実情
              ここまでは私のミスであったり、互いの「見解の相違」であったりであると私は認識していますが、この方の批判でどうしても納得がいかなかったのが、以下のものです。
               
              HDB住宅に入居しようとするカップルは、複数の希望を書いて申し込みます。中古で空きとなっているものも含まれます」という私の文章に対し、「HDBフラットの中古は不動産市場で探すものであり、政府は名義変更には関わるが、申し込まれる対象ではない」と指摘されている点です。
               
              HDBフラットは建設中のHDBを申込み、完成を待って入居するのが一般的で、公開されているHDBHPにもそう書いてあります。ただ、HDBの中にも分譲されず政府所有で賃貸ししている物件があり、テナントがいなくなり空きが出ると中古でも販売することがあります。たまたま昨年、知人の若いカップルがこのような中古物件に入居したため「そういえばそんなこともあったな」と挿入したのがこの一文です。
               
              それをお応えすると、今度は「HDBフラットの中古はプライベートと同じくマーケットで流通しているものであり、このようなケースは『例外』と明記して書くべき」と再度批判されてこられたのです。
               
              そこでさらに記憶をたどってみたところ、知人で中古HDBフラットを中古マーケットからではなくHDBから購入した例を2件思い出しました。合計3件のうち2件は非常に入居を急いでいて建設中の物件を待てなかったケース、1件は「どうしてもここに住みたい」という本人の強い希望があり、かつ、単身者のため入居できる物件が限られていた、というケースです。このようなケースが稀有な例外とは思えないので、訂正はしていません。
               
              (この記事を書いている間にも、他にこんなケースを知らないか問い合わせをしていた友人から「自分の妹が以前は別の人が所有していたフラットをHDBから購入した。購入理由は安かったからでHDBには新築だけでなくいろいろな物件があるよ」というメッセージが入ってきました)
               
              ■人によって違うシンガポールの社会像
              シンガポールでの私の生活範囲には、ほとんどシンガポール人か永住者しかいません。明治屋には行きませんが、シンガポール人の家族・親戚に囲まれ、友人・知人や仕事相手と話していると、このようにインターネットで検索してもどこにも出てこないような情報が時折入ってきます。
               
              もちろん、話を聞く相手は徹底的な裏付けを取るジャーナリストではなく、市井の人々ですので間違いが絶対にないことはないでしょうが、私自身を含め、市井の人々が実際に体験している生の情報には、政府統計や大手メディアの情報とは別の重要な価値があると私は考えています。また、このブログでは、そのような他でなかなか入手できない情報を中心にご提供したい、と思っているのです。
               
              その情報を分析し、判断し、自分自身の論理を再構築される作業は読者の方に委ねられています。もちろん批判されるのもご自由です。
               
              ■社会や事象は切り口や立ち位置により風景が変わる。
              ある方がブログで、シンガポールの幼稚園では、両親の国籍が違う子供たちばかりで、本当にインターナショナル、という感想を書いていらっしゃいました。その方のお子さんが通う幼稚園は確かにそうなのだと思います。
               
              逆に私の子供が通う幼稚園は大部分がシンガポール人のカップルか、中国人のカップルの子弟。数人、白人系のお子さんもいらっしゃいますが、両親は同じ国籍の駐在員家庭が一般的です。少し郊外のHDB団地にいけば、シンガポール人子弟の割合はさらに高くなることでしょう
               
              同じシンガポールに暮らしていても、仕事や学校や親族・友人などの交友関係、また住環境によっても100人100様のシンガポール像があると思いますし、それぞれの印象もまた180度違うものであったとしても不思議ではありません。
               
              多様な背景をもち多様な環境に暮らす人々によって書かれるブログは、他人が自分と同じ社会や事象をみても、いろいろな見方、考え方をされるということを知る意味で、非常に有用なメディアです。前述したように第三者のチェックが入らなかったり、見解の相違により間違いや認識の食い違いが起こったり、「それは違う」と考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、そのようなフィードバックをまた、ネット上で受けられることもブログの利点だと思います。
               
              私が若い頃には情報というものは、時間とお金をかけて獲得するものでした。政府統計は霞が関の売店で買うものでしたし、同じ仕事をしていても情報量の差によって所得に大きな差が出ることも珍しくなかったのです。しかし現在ではインターネット上で多くの情報が無料で、ネットアクセス環境があれば誰でも簡単に入手できるようになっています。そしてまたブログも情報収集の有力な手段の一つなのです。
               
              このようなブログの利点を活かし、さらに情報格差が縮小する社会を目指すところに、私を含めいろいろな方が書かれているブログの存在価値があるのではないでしょうか。
               
              最後になりましたが、今回、批判をしていただいたブロガーの方からは私もいろいろな意味で勉強させていただきました。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。
               
              | Yuriko Goto | 情報 | 15:30 | - | - |
              「民族混在」公団住宅政策で老後の不安がなくなったシンガポール
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                JUGEMテーマ:シンガポール
                今年独立50周年を迎えるシンガポールでは、現在、国立博物館で「シンガポール700年」記念展示を行っています。先週末、日本から友人が訪問してくれたのを好機に見に行ってきました。
                 
                ■独立までの道程
                14世紀までのシンガポールはマレー半島の先端、ジョホールに隣接する「テマセック」というひなびた漁村で、マレー系の小さな部族の王たちが統治してきました。いっぽうで地理的要因からさまざまな国の船が寄港する土地だったようです。
                 
                ラッフルズ卿が上陸してイギリスの植民地支配が始まるのが1819年。「シンガポール」となり人口が急増。東南アジア地域におけるイギリス植民地経営の要所となります。コロニアル風の建造物が次々と建設され、近隣諸国のみならず中国からも多くの移民が押し寄せ、貿易港として大きく発展していきました。
                 
                しかし、太平洋戦争が始まり、1942年に日本軍により陥落。「昭南島」と改名され、日本による植民地経営が始まります。イギリス植民地時代と違い日本統治時代には貧困、飢餓、衛生環境の悪化、失業などに苦しめられ、いまだにシンガポール人にとってこの時代は「暗黒時代」と認識されています。
                 
                1945年に日本が降伏すると再びイギリス植民地となりましたが、東南アジア全体に独立気運が高まります。1959年にイギリスから独立。1963年にマレーシア連邦の一員となりますが、シンガポール住民の多数派である華人系の自治を求めるPAPPeoples Action Party)リーダーで、シンガポール初代首相であるリー・クアン・ユーの政治方針がマレーシア政府の逆鱗に触れ、1965年にマレーシア連邦から追放され、やむなく独立に至ったという、一風変わった建国の経緯をもつのです。
                 
                ■「住」を基礎にしたシンガポール独立後の発展
                印象的だったのは、それぞれの時代、一般の人々がどんな家に住んで何を食べていたのか、という展示が非常に多かったこと。例えば、「カンポン・ハウス」と呼ばれる昔ながらの農村の家が大きな写真で紹介されていたり、独立当時の人々の食事が具体的にいくらしたかがメニュー入りで紹介されています(野菜とご飯、野菜と肉とご飯、野菜と卵とご飯の順に高くなっていくので、卵が当時いかに高級品だったかわかりました)。シンガポール人がどれだけ住と食にこだわっているかの表れだと思います。
                 
                人間の生活に欠かせない条件として「衣食住」が挙げられますが、熱帯気候のシンガポールにおいて「衣」はほとんど問題になりません。逆に、「住」の問題は非常に深刻でした。1949年のイギリスの報告によるとシンガポールは「世界最悪のスラムの一つ」と指摘され、1947年の統計では1軒の家に住む人数は平均18.2人だったそうです。太平洋戦争末期の日本軍の植民地経営ではインフラ整備の余裕はとてもなく、住宅の確保はもとより衛生的な環境を保つための上下水道の整備も喫緊の課題でした。
                 
                そこでシンガポール政府が設立したのがHDBHousing and Development Board)です。日本の公団住宅供給公社によく似ていますが、違うのはその規模。政府主導で低コストの高層団地を作り、全ての国民に近代的で快適な住宅を提供するというプロジェクトが大々的に始まったのです。このプログラムの強力な推進により住宅問題はほぼ解消され、一時は90%以上の国民がHDB住宅に住むようになりました(最近では富裕層が普通のマンションに住むケースも増加し比率が下がっています)。
                 
                ■全国民が所有するHDB住宅
                シンガポールはアジアでは香港に次いで不動産価格が高騰していることで知られています。日本人駐在人家庭が多く住んでいるオーチャード付近のマンションなら通常、数億円はしますし、少し離れた郊外でも億ションは珍しくありません。
                 
                しかし、HDB住宅となると価格は半分以下。さらに若年層や低所得者のための政府補助が非常に厚いため、シンガポール国民であればほぼ全員がHDB住宅を買うことができます。また、CPFCentral Provident Fund)という強制加入の個人年金制度があり、HDB住宅購入時にはここから頭金が使えるためローン期間が短くて済み、比較的余裕をもって返済できます。ですので、シンガポール国民はごく一部の例外を除き、全世帯がHDB住宅を所有しています。何ともうらやましい限りですが、実際、私もシンガポール人から住に対する悩みを聞いたことがありません。彼らにとって若いうちにマイホームを持つことは当たり前で、プロポーズが「HDBを申込みに行こう」という言葉だったという話も聞くほど、「結婚したら夫婦でHDB住宅を買って住む」ことはシンガポール人にとって常識なのです。
                 
                HDB団地に伴って整備された「食」と「行」
                HDB団地は日本の団地と同じく、複数の棟が集まってブロックを作っていますが、その中に必ず「ウェットマーケット」と呼ばれる市場があり、「ホーカーセンター」と呼ばれる公営フードコートが併設されてます。家賃が低く抑えられているため、生鮮食品や乾物が安価に求められ、ホーカーセンターでも低価格の料理を楽しめますので、3食ここで済ませる家庭も珍しくありません。また、主食である米は、政府が販売価格を統制していて低く抑えられており、国際的に米価が上がっても高騰することはありません。
                 
                「衣食住」に加え、華人がもう一つ重要とするのが「行」=交通手段です。
                 
                シンガポールでは地下鉄路線が徐々に増えてきていますが、これもHDB政策に密接に関係しています。主要なHDB団地を作るときには必ずHDBハブと呼ばれるセンターを中心に配置され、ここに地下鉄の駅を作るのです。HDBハブにはショッピングセンターや図書館、公民館などの公的施設が併設されていることが多く、通勤帰りに買い物や用事をすませてから帰宅するというライフスタイルも定着しています。自分の住む棟にはさらにここからバスに乗らなくてはいけないことも多いのですが、バスは頻繁に来ますし、バス停が多いので雨が降っても傘をささずに家まで帰れる人がほとんどです。比較的小規模のHDB団地には地下鉄駅がないケースもありますが、この場合でも必ずバスルートは確保されています。さらにバスや地下鉄などの交通公共機関は政府がコントロールしており、片道50円から100円程度でどこにでも行くことができます。
                 
                HDB政策により民族対立と無縁になったシンガポール
                もう一つ、シンガポールが進めてきたHDB政策で見逃してはならないのが、HDB入居者の民族混合政策です。HDB住宅に入居しようとするカップルは、複数の希望を書いて申し込みます。この中には建設中の物件や、中古で空きとなっているものも含まれます。基本的には抽選で選ばれるのですが、その際、民族別の割り当てがあるのです。
                 
                もちろん民族によって住みたい場所の好みも違うので、すべてのHDB団地で人口比率と同じ民族別入居者数が守られているとはいえないのですが、華人系、マレー系、インド系などの住民が必ずミックスされて住んでいます。住人がこうですから、前述のホーカーセンターでも必ず中華系、マレー系、インド系のテナントが入っており、HDB団地で生まれた子供たちは子供の頃からいろいろな民族が混じった環境で育ち、他民族の料理も食べながら成長するのです。チャイナタウンやリトルインディアなどの観光名所はいまだに残っていても、現在もそこに暮らしている人々はごく少数で、大多数の人々はHDBで民族が入り混じったコミュニティーに暮らしています。
                 
                このため、隣国のマレーシアやインドネシアで時折発生する民族同士の対立がまったくなく、この方面に余計なエネルギーを使わずに経済発展のために邁進できてきたといえると思います。
                 
                ■老後に不安がないシンガポール人
                最近の調査では、シンガポール高齢者の90%が自分の老後に不安がないと答えています。アジア社会独特の親を子供が扶助する慣習が残っていることや、高齢者へのベーシックインカム政策が今年度から採用される予定であることも影響しているとは思いますが、日本をしのぐ少子高齢化社会のシンガポールでこのような結果が出た最大の要因は「住むところに不安がない」ということに尽きるのではないでしょうか。私の義父母も1970年代に建設されたHDB住宅に今も住んでおり、本人たちは「この場所で一生を終える」覚悟で暮らしているようにみえます。また、よしんば老朽化で取り壊しが決まったとしても、住民には新しいHDB住宅への無償住み替えが保証されています。メンテナンスはすべてHDBがしてくれますので、補修の心配もありません。後は月々5〜6万円程度の光熱費や食費さえ確保できれば、老後を憂う必要はないのです(医療費も政府の補助が大きく、内容も非常に充実しています)。

                ■格差社会でも不満は聞かない。
                よく知られている通りシンガポールはアジアのタックスヘイブンの1つで、貧富の格差は先進国としては非常に高く、ジニ係数は0.4を超えて香港よりも高く、アメリカに近い数字となっています。シンガポール人である夫の親戚をみていても、田園調布のような高級住宅街に豪邸を2軒も所有するアッパー富裕層に属する世帯から、築40年のHDB住宅に住み、30年以上子供たちの仕送りだけを頼りにつつましやかに暮らしている義父母のような世帯までさまざまです。

                しかし、日常生活をみる限り、富裕層も一般庶民も購買行動はほとんど変わりませんし、日本であれば「貧困層」に分類されるであろう義父母から将来の不安や生活の不満を聞いたことがありません。これはやはり「住」が政策によってしっかりと保証されており、贅沢をしなければ「食・行」を憂う必要のない社会制度に守られているからだと思います。

                ■コンパクトシティは公団住宅を核に。
                高齢化社会に突入した日本社会ではコンパクトシティ構想が注目を集めていますが、高齢者にとってワンストップで日常生活が送れる駅を中心にしたコンパクトシティはたいへん便利で暮らしやすい環境であると思います。しかし、地元の駅隣接マンションなどをみると非常に高価格で、いわゆる「富裕層」や「アッパーミドル」以外は手が届く価格でないことが現状です。

                日本でも高度経済成長期の住宅事情改善のため、公団住宅供給公社などがこれまでに開発してきた公営住宅や準公営住宅という資産が全国に散在しています。急速に増加する高齢者世帯の住宅ニーズに応え、若い世代の老後に対する不安を多少なりとも軽減するためには、シンガポールに見習い、これらの過去の資産を見直し再開発を行っていくなど、国としての住宅政策を検討し直すことが求められるのではないでしょうか。







                 
                | Yuriko Goto | シンガポール社会 | 07:07 | - | - |
                大塚家具の会長・社長会見にみえた事業継承の大きな問題
                0
                  ■会長、社長の会見スタイルの大きな違い
                  1か月前の記事にも書いた大塚家具の父娘間の経営権争い、勝久会長が久美子社長の罷免を求める株主議案を提出し、いよいよ騒動は佳境に入ってきました。先週には父娘ともに会見を開き、3月の株主総会を控えてテレビなど大手メディアでも大きな注目を集めています。
                   
                  父娘間の最大の争点は創業者である勝久会長のビジネスモデルである会員制セット販売を継続するか、久美子社長の経営方針である顧客の裾野を広げて単品売りを基調にするかという販売手法に対する考え方の違いと言われていますが、会見の様子をテレビで観ていて、それ以外に実は大きな問題があるのではないかと感じました。
                   
                  それを如実に示したのは2人の会見スタイルの違いです。
                   
                  勝久会長は「娘(久美子社長)を社長にしたのが間違いだった」「このままでは大切な社員たちが会社を辞めてしまう」と苦渋に満ちた顔で語りましたが、背後にずらっと背広姿の男性たちが10人以上並んだのはこれまで会長と長年苦楽を共にしてきた幹部社員たちなのでしょう、「俺たちが会長を守るんだ」という意気込みなのか、固い表情でテレビカメラを睨み付けるように直立不動の姿勢で立ち一種異様な雰囲気を醸し出していました。これとは対照的に、久美子社長の会見はたった一人で、パワーポイントの資料を指しながら淡々と現在の経営状況を説明しつつ質問に答え、「創業者はいつか引退しなければならない」と表情を変えずに語っていました。
                   
                  ■「人情に厚い集団のトップ」と「合理的な経営者」。両極端の2
                  勝久会長の会見を見て私が率直に感じたのは「映画に出てくるヤクザの親分みたいだな」という感想です(反社会勢力的という意味では決してありません。念のため)。
                   
                  男性が中心的な役割を占める集団のトップとして、部下の面倒を長年にわたってみ続け、時には叱咤激励しながらも厚い人情をかけながら彼らを引っ張ってきた老境の男性の心情が伝わってくるような気がしたのです。反対に、この親分に仕えてきた子分たちにとって、感情や人情に訴えるのではなく、あくまで数字や論理で現状と経営方針をクールに説明し「明日からこのように営業方法を変えてください」と新社長に言われたとしたら、いきなり突き放されたような気がして「やはり以前の社長のほうがよかった」と思ってしまいそうだなと感じたのです。
                   
                  前回も書いたように、久美子社長は一橋大学卒業後、大手銀行でキャリアを積み、いったん大塚家具を離れたときにはコンサルティング業を営むなど、経歴をみれば絵に描いたようなエリート人生を送ってきています。勝久会長の部下をつとめてきた古参社員たちとのバックグラウンドはおそらくまったく違い、下手をすると久美子社長の話している言葉さえ通じていないということも起こっていたかもしれません。
                   
                  そのような背景を考えると、今回の騒動のそもそもの原因は、直接的に父娘が対立したというより、久美子社長の経営スタイルについていけない社員たちが勝久会長に直訴し、その結果、もともと販売方針などをめぐる父娘の考え方の違いが決定的な経営者間の亀裂に発展したものではないかと強く感じました。
                   
                  ■中小企業の事業継承に伴う古参社員の反発
                  大塚家具に限らず、中小企業で先代の子供が社長になるときには、必ずといっていいほど社員との軋轢が生じます。古参社員からしたら新社長は「おむつをしていた頃から知っている社長の子供」です。下手をしたら新社長を大学まで出してやったのは「俺たちが汗水たらして稼いできたお金のおかげ」と考えている社員もいるかもしれません。
                   
                  「まだまだひよっこ」と心中では下に見ている新社長から「これまでのあなた方のやり方はもう通用しません」「これからは私のやり方でやりますので、それに従ってください」と言われ、引退した会長に「社長をなんとかしてほしい。そうでなかったら会社を辞める」と古参社員が直訴した、という話は社長仲間からもときどき聞きます。まして新社長が女性であれば、「あんな小娘の言うことなんか聞けるか」という反発を社員から招くことは往々にして起こるのです。
                   
                  ■新たな経営方針をどう社員に理解してもらうかは社長の力量
                  いくら社長が素晴らしい斬新な経営方針を示しても、社員が本気になってその方針に従って動いてくれなければ決して会社の変革はできません。そのような逆境の中で、どう自分の方針を社員たちの腹の中まで落とし込み、同じベクトルに向けて引っ張っていけるかもまた、社長の重要な責務です。
                   
                  客観的にみれば、会員制高級家具セット販売というこれまでの勝久会長の経営スタイルが現在の市場の変化に対応したものであるとはとても思えません。勝久会長もここまでの会社を創った名経営者ですから、それはある程度理解しているでしょうし、久美子社長の新しい経営方針のほうが株主にとって合理的かつ魅力的にみえることは間違いないでしょう(ただし商売は生き物ですから、合理的な選択をすることによって確実に売り上げや利益が上がるとは断言できないところがまた難しいのですが・・・)。
                   
                  しかし、もし久美子社長が今回の父娘の闘争の勝者となったとしても、集団のトップとして社員たちのモチベーションを上げ、自分の経営方針を実現してもらう、という最も重要かつ困難な仕事は残ります。逆に勝久会長が久美子社長を追放できた場合でも、現在の消費者の購買行動の変化に素早く対処できる経営方針を社内に示し、それを実行していく社員を育てていく、という仕事はこれからも続くのです。
                   
                  個人的には、7年ほど前に新宿の大塚家具でソファを単品買いし、今でも愛用しています。一消費者としてはニトリやIKEAだけでなく、多少高くても長く使える良いものを「単品で」売ってくれる大塚家具には、今回の騒動の教訓を活かし、ぜひ今後も生き残ってほしいと思っています。
                   
                  | Yuriko Goto | 企業経営 | 09:15 | - | - |
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