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ASIAN NOMAD LIFE2017.02.23 Thursday
「労働生産性の向上=時間あたりの生産効率の向上」という議論の誤謬と「付加価値額」増加から考える新しい労働生産性の考え方
JUGEMテーマ:ビジネス
■「労働生産性」に関する考え方の根本的な誤り (財)日本生産性本部の「2016年度版労働生産性の国際比較」によると、2015年の日本の時間あたり労働生産性は、42.1ドル(4,439円/購買力平価(PPP)換算)で、OECD加盟35か国中20位、ニュージーランド(41.0ドル)をやや上回るものの、米国(68.3ドル)の6割強程度しかないそうです。ちなみに、第1位はルクセンブルクの95.0ドル(10,006円)で、日本の2.3倍もあります。
また、就業者1人当たりでみた日本の労働生産性(就業者1人当たり名目付加価値)は、74,315ドル(783万円/購買力平価(PPP)換算)で、順位はOECD加盟35カ国中22位。やはりニュージーランド(72,109ドル/760万円)をやや上回るものの、カナダ(88,518ドル/932万円)や英国(86,490ドル/911万円)といった国を大きく下回っています。
この数字はいったい何を意味するのでしょうか?
「労働生産性の向上」というと、すぐに「無駄な残業時間の削減」や「時間あたりの生産高の向上」が議論されますが、時間あたり労働生産性だけでなく、1人あたり労働生産性もこれだけ低いとなると作業効率はほぼ関係ありません。いくらルクセンブルグ人が優秀だといっても、まさか時間あたり日本人の2.3倍の仕事量をこなせるとは誰も信じないでしょう。
また、このレポートで「統計で遡れる1970年以来、主要先進7カ国の中では最下位の状況が続いている」「2010年代に入り、日本の労働生産性水準は米国の6割強で推移。1990年には米国の3/4近い水準だったが、2000年代に7割前後に低下し、近年まで緩やかに差が拡大する状況が続いている」と分析しているのも非常に問題の根が深い指摘だと思います。
■労働生産性向上の手法は時代の変遷によって変化する。 では、なぜ日本人の労働生産性はこれほど低いのでしょうか?
私は、労働生産性向上の議論に見られるように、日本人の多くがまだ、一時代前の「時間あたり生産効率を上げて生産コストを下げ、安く販売する」という成功モデルに囚われていることに最大の原因があると考えています。
付加価値額や労働生産性の計算式はどれを採択するかによって少しずつ違いますが、だいたいこのようなものです。そして従来の議論では、「生産効率を高める=コストの削減」は議論されても、「売上高を上げる」という方法についてはほとんど議論されてこなかったのが実情です。
20世紀にフォード型のライン方式やトヨタ型のカンバン方式でコストを下げる議論をしていたときならまだしも、21世紀の現在、「モノ」ではなく「情報」が主役に躍り出た時代にいかにも時代遅れの議論をしているように私には思えます。
■ある100年企業の変遷に見る付加価値額の確保方法 それをはっきりと物語るのが、私が昨年10月まで社長をしていたある小企業の付加価値額確保方法の変遷です。
この会社は私の曾祖父が大正5年に創業。当時は第一次世界大戦の最中でヨーロッパで日用品の生産ができなかったことから、ヨーロッパ向けに靴紐を作って輸出することからスタートしました。
こちらは昭和9年の新聞に掲載された曾祖父のインタビュー記事です。
曾祖父が語っているように、当初は東京の会社の下請けとして安い田舎の労働力を使って靴紐を作っていましたが(ヨーロッパに比べて安い製造コスト)、最初は長い紐の状態で販売していたところ、靴紐の長さに切ったり、その先に金属のチップをつけたりするとより高く売れることがわかり、別の商社に営業して販売先を変え、付加価値額を上げます。
その後、祖父の代になると、今度は商社を介さず、横浜と神戸に支店を構えて直接輸出を始めるようになります。すると今度は商社が販売していたのと同じ値段(または若干安く競争できる値段)で売れるようになりますが、製造コストは変わりませんので、付加価値額は当然上がります。
太平洋戦争をはさんで戦後の高度経済成長時代に経営にあたった父の代になると、今度は本格的なコスト削減=生産効率の向上が始まります。これまで住宅地にあった工場を人がいない畑の中に移し、24時間無人で工場を稼働させ、また生産効率のよい機械設備もどんどん導入して、これまでの数倍の生産高にしたのです。
しかし、従業員数はそこまで増えませんので当然、1人あたりの労働生産性は上がり、従業員がいない夜間も稼働するわけですから時間あたりの生産性も上がります。一度に大量に作って販売すれば、それにかかる間接費も削減できますので、競合他社と比較して安い価格で売ることもできました。それでもなお、高い付加価値額と労働生産性を確保し、設備投資に余剰金を回すことができました。
しかし1998年、私が経営に着手したときには、「作れば作っただけ売れる」という時代は終焉を迎えていました。当時の中国の工員さんの月給は約4,000円。対してこちらの社員の月給平均は20万円近くでした。父の代に相当な設備投資をし、製造コストに占める人経費割合が5割を切っていたとはいえ、いかんせん人件費が違いすぎます。また、日本製原料と中国製原料、及び外注加工費の差もあり、どんなに頑張っても価格差が縮まらず、あれよあれよという間に注文は中国に流れていき、倒産の危機に直面しました。
そこで私がとった戦略は主として2つです。
1つは徹底的なコストダウン。これまでの設備をさらに拡充して生産高を最大にし、もう一方で原料を中国より安いアジア諸国から直接買いつけて原料コストでも優位性を確保しました。この結果、一部の商品で中国製品と競争できるくらいまで販売価格を下げることができ、間接輸出額が大幅に増加しました。販売価格こそ低いものの販売数量が飛躍的に伸び、減価償却などの固定費や間接費は変わりませんので、その分付加価値額がプラスになりました。
もう1つは「オンリーワン商品」の開発です。オンリーワン商品は競合他社が販売していない(販売できない)商品ですので、顧客に価格選択権はありません。そこで、高い粗利が取れる価格で商品を販売し、付加価値を高めました。もちろん開発した商品が全部売れるわけではないので大変でしたが、コストに比べ販売単価が大幅に高いので付加価値額が飛躍的に増えたのです。
そして現在。次の世代に経営を譲りましたが、これからの付加価値額及び労働生産性向上の鍵になるのは、単なるモノではなくそのモノを所有することによって得られる消費者の満足感を徹底的に追及すること、および情報技術を使って販売機会を最大限拡大することにかかっていると思います。
つまり、労働生産性の問題とは、人事・総務の問題ではなく、企画・営業・販売、ひいては経営戦略の問題なのです。
■労働生産性の王者はアップル このことを端的に表わしているのが、アップル社です。
i-phoneをはじめとするアップル社の製品は、どれも競合他社とすることは同じです。電話をしたりネットにつながったりビデオを観たりすることは安いアンドロイド端末でも十分できます。しかし、多くの人は安物のアンドロイド端末(i-phoneと同じ中国製です)ではなく、その10数倍ものお金を払って最新のi-phoneを買うのです。
安いアンドロイド端末を作るのもi-phoneを作るのも、(多少はいい材料を使っているかもしれませんが)たいして製造コストは変わりません。十数倍ものコストの違いは絶対に出ません。また、従業員数が十数倍になることもあり得ません。つまり、アップル社の社員の1人あたり労働生産性は、安価なアンドロイド端末のメーカーに比べ十数倍も労働生産性が高くなる可能性があるということになるのです。
これこそ、冒頭に紹介したアメリカと日本の労働生産性の差が開きつつある最大の原因ではないでしょうか?
■どうやって付加価値額を上げるかをもっと真剣に考えるべき。 ホワイトカラーの労働生産性を上げる、という場合、ムダな残業を削減して効率よく仕事するという議論にはもちろん全面的に賛成します。
しかし、これまでと同じ仕事をしてただ早く帰ればいい、というのでは時間あたりの労働生産性は上がるかもしれませんが、1人あたり労働生産性は上がりません。そこが上がらなければもちろん給料も上がりませんし、デフレからも脱却できないでしょう。
もちろん、日本にもキーエンス、ファナック、浜松ホトニクスなど、それぞれの分野で他社の追随を許さない独自の技術をもち、非常に高い世界的シェアを誇る会社はいくつもあります。しかし、残念ながら、総労働者数や総企業数に対してこのように高付加価値額を稼ぎだすことができる企業の数が少なすぎるのが現状なのです。
シャープの鴻海への身売り、東芝の経営危機をはじめ、これまで日本を代表してきた名門日本企業が次々と経営難を迎える中、これからの日本経済をどうやって持続させていくかを考えるとき、もう一度原点に立ち返って、付加価値額を上げ、労働生産性を高める方策を国民レベルで議論していくことが重要なのではないでしょうか。 2017.02.16 Thursday
「脳みそから血が出るくらい」考え抜かれた「ほぼ日」上場と「糸井重里」という商品の商品寿命
コピーライターの糸井重里さん(68歳)が代表をつとめる株式会社ほぼ日が、来月16日にジャスダックに上場することが決まりました。
糸井さんは近年、上場への意気込みを語り、社名も昨年12月に「東京糸井重里事務所」から「ほぼ日」に変更するなど、着々と準備を進めてこられました。晴れて念願の上場が決定したわけですが、一昨日の日経新聞の記事によると、ほぼ日の売上高は38億円、税引き後利益は3億円(2017年8月見込)で、業績は堅調。看板商品の「ほぼ日手帳」が売上高の約7割を占め、着実に顧客の心をつかんでいるようです。
■売れっ子コピーライターとしての商品寿命を迎えた糸井さん ほぼ日の顔ともいえるインターネットサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の創刊は1998年6月。糸井さん49歳のときです。当時の糸井さんは、コピーライターとしてはもちろん、テレビや映画に出演したり、ゲームプロデューサーになったりと、華やかなマルチ文化人として確固たる地位を築かれていました。
私は団塊世代の糸井さんより一世代下になりますが、糸井さんを最初に知ったのは1980年から始まったパルコ出版『ビックリハウス』内での「ヘンタイよいこ新聞」です。当時はまだ、伝説となった西武百貨店のコピー「不思議、大好き。」や「おいしい生活」などの名コピーも生まれておらず、メジャー文化人というより、サブカル・オタクの教祖的存在でした。
その後めきめきと頭角を現し、売れっ子コピーライターとして一世を風靡した糸井さんですが、40代に入ると「暗いトンネルに入ったみたいでつらかった」と一転してこれまでのキャリアに影がさしてきたことを示唆しています。
糸井さんが40歳になったのは1988年。昭和最後の年であり、バブル景気の絶頂期。糸井重里的なサブカルチャーがメジャーなポップカルチャーとして時流に乗り、翌年の89年にはゲーム制作会社を立ち上げて大ヒットしたゲームソフト「MOTHER」も作っています。
しかし、91年にバブルがはじけると、コピーライター糸井重里のホームグラウンドともいえる西武百貨店/パルコ文化の生みの親である堤清二氏がグループ代表を辞任。セゾングループは衰退の一途をたどり、ポップカルチャーも往年の輝きを失っていきます。
当時、私も広告業界にいたのでよくわかりますが、広告関係の仕事は激減、過当競争で広告の単価はどんどん下がり、業界を去っていくフリーランスの方がたくさんいました。糸井さんもネームバリューがあるだけに、コピーライターとしては逆に難しい転機を迎えられていたのではないかと思います。 言い方を変えれば、ちょうどバブル期と重なった30代に、坂を駆け上がるように売れっ子になった「糸井重里」という商品自体が、10年強の時間を経たあと、今度はゆっくりと坂を下りながら商品寿命を迎えていたのではないかと思うのです。
そのことはご本人自身が一番自覚していたようで、1995年の故ナンシー関さんの「もうおもしろくない」発言に対し、98年に「こういうことを目ざとく発見するのが、ナンシー関という人の恐ろしいところである。自分で、「オレ、面白くなかったんだ!」とかなり痛いところに気づいてしまったのも、彼女のせいというかお陰なのである。」と言及されています。
「ほぼ日刊イトイ新聞」(タイトルからして「ヘンタイよいこ新聞」のもじり感が強い)創刊直後であり、ナンシーさんのエッセイから3年も経ってから糸井さんがこの文章を書いていることを見ても、40代に入ってずっと悩んできたことを鋭くナンシーさんに指摘され、進むべき方向を模索してきたであろう糸井さんの苦悩がうかがわれます。
■インターネットという新しいプラットフォームに載せた手帳というアナログツール そして1998年6月、糸井さんは50歳になる一歩手前で、まったく新しい仕事である「ほぼ日刊イトイ新聞」を創刊します。
インターネットの黎明期。ファミコンソフトでソフト業界に関与していた時期があったとはいえ、この頃の糸井さんに、インターネットをプラットフォームとして上場できるような会社を作る、というような野心はまだなかったはずです。インターネットで「何かができる」という期待はありましたが、具体的に何ができるかをわかっていた人はほとんどおらず、ましてやスマホやWi-Fiで誰もがどこでもいつでもネット環境につながることができる世の中が来るなど、誰も想像さえしていなかったのです。
しかも、その最先端のプラットフォームを使って、最初に始めたのがTシャツ販売、そして3年後には基幹商品となる「ほぼ日手帳」を発売されます(この他ハラマキやタオル、カレンダー、本、土鍋など、関連性があるのかないのかよくわからない商品が並びます)。 どれもどうしてもネット販売する必要がある商品とも思えない非常にアナログな商品なのですが、それらの商品をあえてネットショップ(店構えはまったくお店ではありません)というプラットホームにのせ、ヒット商品として販売していけるのは、ほぼ日の考え抜かれた店舗戦略・販売戦略なしには語れないと思います。
■「脳みそから血が出るまで考える」と楽しい50代、60代が待っている
私はこの糸井さんの言葉が好きで、自分でもよく「脳みそから血が出るまで考えられているか」自問自答します。
バブル崩壊以降の厳しい環境下で「おもしろくなくなった」自分という商品の将来に悩んだとき、50歳直前ではっきりとした先の見通しもないまま「行くぞ!」と決心して「ほぼ日」を始め、次々と「糸井重里」以外の商品を開発していったとき、60歳前後から事業が拡大しスタッフが増え(ここには書きませんでしたが)社員教育や会社での社員と自分の関係性を模索したとき、いつも糸井さんは「脳みそから血が出るくらい」考え、それを楽しんできたのではないでしょうか。 そして、それは40代の非常につらい時期に本気で考え抜いたからこそ「面白い」といえる楽しみ方だと思うのです。
■上場→引退後の糸井さんに期待 前述の日経新聞の記事には「カリスマ文化人の経営手腕やいかに――。」と書かれていますが、この記事をもとに私が計算したところでは、今回の上場で糸井さんは約4割を保有しているという株の大部分を手放し、手元には全株式の1割に満たない株しか残らないことになります。
これはとりもなおさず、ほぼ日が「糸井さんの会社」から「誰のものでもない会社」になるということです(単独で過半数をもつ別の大株主がいれば別ですが)。こういう状況証拠を積み重ねると、今回の上場は自身の引退もふまえた決断であるのではないかと推測できますし、実際、昨年のイベントでは「貧しない土台を作るのが現役であるうちの僕の仕事。そこからは違う会社になっても構わないと思うんです。だからあんまりネガティブに考えてないですね。」と、これからの道筋についても言及されています。
ある意味、非常に糸井さんらしいといえばらしい引退の仕方ですが、人生100年時代、ずっと少し前を走ってきてくれた先輩として(まだ少し早いかもしれませんが)、ジャスダック上場→「ほぼ日」引退後の糸井さんが、今度はどんな選択を見せてくれるのか、今から楽しみです。
| Yuriko Goto | - | 17:34 | - | - |
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